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  • ・ラーマクリシュナのサマーディのお写真についての伝承
    これはコルカタの僧院で歴代のスワミから伝承されているお話です。ラーマクリシュナのサマーディのお写真を撮ろうとカメラマンがラーマクリシュナの前にカメラを据えたところ、ラーマクリシュナの姿勢が前屈みになっていて顔が下を向いていたので、カメラマンはラーマクリシュナのあごに指をかけて引き上げようとしたら、ラーマクリシュナの身体がそのまま宙に浮いたので、びっくりしたカメラマンは後ずさりして据えていたカメラを倒してしまいました。そのはずみでカメラの中に収められていたガラス湿板の角が欠けてしまったようで、そのガラス湿板で写真が撮られたのです。ラーマクリシュナのサマーディの写真を見ると上面が半円形に加工されていますが、このとき欠けたガラスが原因でそのようになったそうです。
  • ・ラーマクリシュナとナレンドラ、身長はどっちが高い?
     皆さんはラーマクリシュナは小柄で、ナレンドラはがっしりとした体格なので、当然ナレンドラの方が身長が高いとお思いではないでしょうか。しかし、ラーマクリシュナは思ったよりも身長が高く、ラーマクリシュナの方がナレンドラよりも少し身長が高いのです。ラーマクリシュナの身長は写真館で撮られた写真などから175センチと推定され、ナレンドラは1898年にカシミールで撮られた写真で一緒に写ったシスター・ニヴェディタの身長から計算すると174センチとなり、ラーマクリシュナのほうが1センチほど身長が高かったようです。
  • ・大正時代には、既に日本でヴィヴェーカーナンダの講話が翻訳されていた!
    大正15年12月25日(正確には昭和元年)に印刷された「現代仏教 第四巻一月号/大雄閣刊」に佐野甚之助が翻訳したヴィヴェーカーナンダの講話「最高の信念」が掲載されています。日本とヴィヴェーカーナンダとの関係の深さに驚きを隠しきれません。ラーマクリシュナ研究会ではこの資料を取り寄せて、ホームページで公開しているので、是非ご一読ください。 全文はこちらから →
  • ・約束したことは必ず守る(約束出来ないことは言わない)
    ラーマクリシュナや直弟子たちは約束したことは必ず守りました。コタムリトの中でもラーマクリシュナが、つい口に出して言ってしまったので、その約束を守るために苦労なさった記述があります。スワミ・ブラフマーナンダ(ラカール)は、「~するように努力しましょう」とか「マーのお恵みがあれば会えるでしょう」とか言って、はっきりと約束することはありませんでした。
  • ・現在、ドッキネーショル寺院では犠牲(いけにえ)は行われていません。
    マヘンドラ・グプタがコタムリトを著した頃には、ドッキネーショル寺院でも山羊などの犠牲(いけにえ)を供えていました。「コタムリト第1巻・第1章」の「ドッキネーショルのカーリー寺院」の〔倉庫、食堂、接待所、犠牲(いけにえ)台〕の記述に、『新月の日には、牝山羊が一頭、犠牲(いけにえ)に供えられる』と書かれていますが、寺院の役僧が入れ替わり、今の役僧になったときに犠牲(いけにえ)は中止されたそうです。
  • ・スワミ・シヴァーナンダから求道者への教え
     心を集中する方法を教えよう。非常に大切なことではあるが、とても易しい方法なのだ。  聖ラーマクリシュナの写真を置いて、その前に坐りなさい。  そして師に視点を固定し、師の御名をジャパしなさい。そうしていると、  "聖ラーマクリシュナがずっと、わたしを見ておられる!"  "聖ラーマクリシュナがずっと、わたしのジャパを聞いておられる!"  と、はっきりした確信が得られるようになる。  師がそこに坐っておられる理由はただひとつ、それはね、あなたを救うためなんだよ。  このようにすれば、心が穏やかに静まっているいることがわかるだろう。  師への信頼はますます深まり、心が平安になっていくことに気付くだろう。                       求道者へ宛てた1922年6月16日の手紙より
  • ・12のシヴァ堂のシヴァ・リンガの名前
    ドッキネーショル寺院の12のシヴァ堂にはシヴァ・リンガが祀られていますが、それぞれに名前がついています。北から南に向かって、 1.ヨーゲーシュワラ          ヨーガの主 2.ラトネーシュワラ          貴宝(ラトナ)を持つ主 3.ジャティレーシュワラ        もつれ髪(ジャティル)の主 4.ナクレーシュワラ          シヴァ神に仕える者(ナクラ)の主 5.ナーゲーシュワラ          ヘビ(ナーガ)の主 6.ニルジャレーシュワラ        老いることのない(ニルジャラ)主 7.ナーレーシュワラ          人間(ナラ)の主 8.ナンディーシュワラ         聖牛(ナンディ)の主 9.ナーデーシュワラ          聖音(ナーダ)の主 10.ジャガディーシュワラ        世界(ジャガッド)の主 11.ジャレーシュワラ          水(ジャル)の主 12.ヤジュネーシュワラ         祭祀(ヤジュニャ)の主
  • ・ヴィディヤサーガルの家
     1882年8月5日(土)にタクール、聖ラーマクリシュナが訪れたヴィディヤサーガルの家は、2015年の時点で、当時のままの姿で保存されています。聖ラーマクリシュナと面会した部屋も残っていて、希望すれば見学も出来ます。コタムリトに記述されている通り、西に道路が通っており、西側に門があります。四方を壁で囲まれた広い敷地の中央に建っており、二階の北西の部屋がラーマクリシュナがヴィディヤサーガルと面会した部屋です。今は、一階はヴィディヤサーガル女子大学の教室として使用されており、学生が勉強している姿を見ることが出来ます。 詳細、写真はこちらから→
  • ・シンティにあるベニー・マーダヴァ・パルの別荘
    1882年10月28日(土)に、聖ラーマクリシュナが訪問したシンティにあるベニー・マーダヴァ・パル氏の所有する別荘は現存し、巡礼することができます。 写真、詳細はこちらから→
  • ・マルワリの信者の供え物を食べて腹を下したヨーギン
    「1882年12月某日」 のコタムリトに、マルワリの信者たちがタクールに捧げるために持参した果物や皿に盛った砂糖菓子などの品物をタクールは、「あの人たちは、さんざんウソをついて金を儲けているから--」と言って受け取りませんでしたが、マルワリの信者が持参してきた供え物を、ヨーギン(スワミ・ヨーガーナンダ)は食べてしまい、お腹を下してしまったことがあります。タクールは、マルワリの信者の供え物を食べて消化出来るのはナレンドラだけだ、と言ったそうです。 詳しくはこちら→
  • ・聖ラーマクリシュナの教えと玉城康四郎先生の禅定体験
     コタムリト「1882年12月14日(木)」の中で聖ラーマクリシュナは “蔵の中に人が入っていると、主人は中には入ってこない” と言っていますが、玉城康四郎(たまき・こうしろう)先生はブッダの瞑想を行じていく中で、究極の禅定体験をなさっておられます。その体験がタクールの教えに通ずるのではないかと思い、玉城康四郎先生の禅定体験をご紹介します。 「頭がカラッポになった時、私自身にダンマ(如来)が顕わになった。ダンマが私自身に通徹すると、煩悩が消滅して、一切がすっきりと透明になる。こういうわけだから、”私は悟りを開いた” というのではなく ”ダンマが悟りを開いてくれる” のである。」  タクールは「蔵の中に人が入っていると、主人は中には入ってこない。」と言っていますが、もし蔵から人が出たら蔵の中はカラッポ。蔵がカラッポになれば、そうしたら主人(神様)が蔵に入ってくる。  玉城康四郎先生はタクールのこの教えを、自ら体験されたのだと思います。 「私は悟りを開いた」ではなく「ダンマ(如来)が悟りを開いてくれる」この言葉もすばらしい言葉です。 詳しくはこちら→
  • ・タクールの「ご自分の坐り方」とは?
     1883年1月1日(月)のコタムリトに、次のような記述がある。 「タクールは小さい木製ベッドの上で、ご自分の坐り方(アーサナ)で坐っておられる。こうした場合は通常、前三昧状態である。」  ここに書かれているタクール、聖ラーマクリシュナの「ご自分の坐り方(アーサナ)」とは、日本の小学生がする体操座りの足をクロスした座り方で、その当時ベンガル地方の田舎の人がしていた座り方である。タクールのサマーディの写真から判断して、左足が前、右足が後ろであったと想像される。
  • ・ギーターに書かれていることは実際に起こる!
     このトピックスを記述した2020年3月29日時点で、新型コロナウィルスの世界的な蔓延によって外出禁止令が出ている国もたくさんありますが、そんな中、「コタムリト」の編集を手伝ってくださっているインド、コルカタ在住のラーマクリシュナの熱心な信者の方に起こったお話を紹介します。  インドでも全土で外出禁止令が発令され、食料や日常品の購入以外の外出は禁止され、食料の購入には何時間も並ばなければならない状況です。その熱心な信者の方の家には、まだお米はありましたが、ちょうど野菜がなくなっていました。もう買いに行かなければいけないと思っていた日の朝方、八百屋さんが家の前まで売りにきてくれたので、ベランダからめぼしい野菜を選んで部屋まで届けてもらうことができました。何と自宅の戸口まで階段を上がって持ってきてくれたのです! インドでもネット通販が出来るようになっているそうですが、その信者の方はカードも持っていないし、そんなふうに買い物もしたこともないので、届けてもらったときには本当に神さまの恩寵だと心の底から感じたそうです。バガヴァッド・ギーターに、「熱心な信者の元へわたしは必要なものを届ける」と書かれてあるのは本当なんだと感じられたそうです。  この信者の方がこのことを話してくれた時に、関連した話として、実在したパンディット(ヴェーダ聖典の学者)に実際に起こった話が、21世紀の現代にも面々として語り継がれていることを教えてもらったので、その話もご紹介します。 詳しくはこちら→
  • ・岡倉天心よりも8年も前にラーマクリシュナ僧院に来た日本人がいる!
    日本人が初めてラーマクリシュナ僧院を訪れたのは、1902年(明治35年)1月にスワミ・ヴィヴェーカーナンダに会うためにベルール僧院を訪問した岡倉天心(おかくら・てんしん)と、同行した真言宗の僧侶、堀至徳(ほり・しとく)だと思っていましたが、それよりも8年も前、1894年(明治27年)、ヴィヴェーカーナンダがシカゴの宗教会議に出席した翌年に、すでにアラムバザールの僧院を訪れていた日本人がいるのです。その日本人は川上貞信(かわかみ・ていしん)という浄土真宗の僧侶です。これは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの弟、マヘンドラナート・ダッタが書いたベンガル語の本に載っていた記事から見つけたものです。あまり長い文面ではないので、以下、その全文を掲載します。 詳しくはこちら→
  • ・賤民でありながらラーマクリシュナの恩寵を受けた “ラシック” の物語
     1883年9月22日のコタムリトの中で、ラーマクリシュナはラシックという掃除夫の名前を口にしています。当時、知的階級が多かったラーマクリシュナの信者の中で、ラシックは賤民の身分でありながらラーマクリシュナの恩寵を受けた人物として、現代まで語り継がれてきました。また、ラーマクリシュナはご自分の修行時代、皆が寝静まった夜ラシックの家に行き、ラシックの家の汚れをご自身の髪で拭いて、自身のバラモン階級としてのプライドをぬぐい去ったのです。このラーマクリシュナの訪問によって聖地となったラシックの家は、現在、シュリー・サーラダー・マトの所有となっており、ラシック・ビータ(ラシックの居所)として女性の教育施設となっています。  ラシックは賤民(アンタッチャブル)であったがゆえに、ラーマクリシュナへの信愛(バクティ)を育てるには大変な障害と向き合わねばなりませんでした。ラーマクリシュナ研究会では、ラシックのことをラシック・ビータのホームページで知ることが出来、そこに掲載されている Story of Rasikの掲載許可を頂くことができました。ここに「ラシックの物語」と題して紹介させていただきます。日本の皆さまにラシックのことをお伝えさせていただけることを心より嬉しく思います。 「ラシックの物語」詳しくはこちら→
  • ・コタムリトの中で * * * で印字し内容を省略している箇所がある。これは?
    マヘンドラ・グプタがタクールの許でドッキネーショル寺院に泊まり込んで修行していた「1883年12月14日(金)」の『コタムリト』ベンガル語原典の中で、タクールの言葉の後に、* * * と印字されて内容が省略されている箇所がある。ここ以外にも数ヶ所あるが、これは、一般の人には公言してはならないとタクールに言われたか、マヘンドラ・グプタがそう判断した秘密の内容と思われる。また、マヘンドラ・グプタへの個人的な教えについても公開しなかったようである。  このことはマヘンドラ・グプタの直筆の日記を読むことを許された熱心な『コタムリト』の研究者が『コタムリト』と『日記』を照らし合わせて導き出したことである。前後の文章から考えても、それが正しいと思われる。 詳しくはこちら→
  • ・日本で初めて紹介されたラーマクリシュナの教え
     日本で初めて活字としてヴィヴェーカーナンダの教えを伝えたのは、大正15年、佐野甚之助が翻訳したヴィヴェーカーナンダの講話「最高の信念」だと思いますが、では、ラーマクリシュナの教えが日本で初めて紹介されたのはいつでしょうか。またそれは誰によって、どのような教えが伝えられたのでしょうか。  現時点でそれを探るには過去の出版物に頼るしかありません。いろいろ調べた結果、昭和3年6月に発刊された「佛教読本(高楠順次郎著/大雄閣刊)」に「道を求むるもの(ラーマクリシナ/佐野甚之助訳)」という記事が掲載されているのを発見しました。  ヴィヴェーカーナンダの教えを伝えた佐野甚之助は、ラーマクリシュナの教えも紹介していたのです。 詳しくはこちら→
  • ・日本に初めてラーマクリシュナやスワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えを伝えた佐野甚之助の生涯
     日本に初めてラーマクリシュナやスワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えを伝えたのは佐野甚之助ですが、その生涯はあまり知られていません。ラーマクリシュナ研究会では、断片的な資料を寄せ集めてその生涯をまとめてみました。  そこには佐野甚之助がインドに渡ったいきさつから、日本に残した佐野の足跡など、興味深い内容が判明しました。 詳しくはこちら→
  • ・ブラジルにヴェーダーンタの基礎を築いた日本人がいたのをご存じですか?
     終戦後、ブラジルにヴェーダーンタの基礎を築いた日本人がいます。その人の名は東胤隆(とう・たねたか)さんと言います。ブラジルでは親しみを込めて「たかさん」の愛称で呼ばれています。「たかさん」は1959年(昭和34年)にブラジルに移住し、すぐに奇跡的な出会いからラーマクリシュナやヴェーダーンタの教えを学ぶようになり、ブラジルにヴェーダーンタの基礎を築いたお方です。その「たかさん」が2020年4月にお亡くなりました。ラーマクリシュナ研究会では「たかさん」の歩まれた足跡を皆さんにお伝えすることで皆さんの信仰生活の刺激にしていただきたいと思っています。 詳しくはこちら→
  • ・大正時代にはバンキムの小説が邦訳されていた!
     1884年12月6日(土)の「不滅の言葉(コタムリト)」には、聖ラーマクリシュナが在家信者アダルの邸を訪ねた際、アダルが連れてきた有名な文豪、バンキムとの対話が詳しく描かれています。また1884年12月27日(土)の「不滅の言葉(コタムリト)」にはバンキムの小説「デーヴィー・チョウダラーニー」を校長ことマヘンドラ・グプタが聖ラーマクリシュナに読んで聞かせる様子が描かれています。当時からベンガルでは有名だったバンキムの小説を、ラーマクリシュナとバンキムの対話から40年後の大正13年(1924年)には、すでに佐野甚之助が邦訳して刊行していたのです。ラーマクリシュナ研究会では日本で初めて刊行されたバンキムの小説が掲載された雑誌「現代佛教」を入手しました。そこに掲載されたバンキムの小説「虎博士の学説」を現代文にして読みやすくしました。 詳しくはこちら→
  • ・タクールが好んで噛んでいた香料は何でしょうか?
     1885年5月23日(土)のコタムリトの中でタクール、聖ラーマクリシュナは小さな香袋から香料を取り出して噛まれます。 「飲み物を召し上がってから、小さな香袋から香料(やくみ)をとりだしてお噛みになる。そして袋をしまってくれるようにと校長におっしゃった」  その香料とは何という香料だったのでしょう。それは「カバブチニ」だと思われます。 詳しくはこちら→
  • ・タクールが故郷での思い出話として語ったランジット・ラヤの貯水池の様子
    1885年7月13日(月)の「コタムリト」の中で、タクールは故郷での思い出話としてランジット・ラヤの大貯水池で起こった不思議な出来事のことを話されましたが、その話に登場する貯水池は現在も存在しており、たくさんの水をたたえています。貯水池横の高台には女神を祀った礼拝堂が建てられています。現在のランジット・ラヤの大貯水池の様子を写真でご紹介します。 詳しくはこちらから→
  • ・タクールがタントラの修行で使った ×××座布(シート)とは?
    1885年7月15日(水)の「コタムリト」の中で、以前の話としてバラモンの女修行者の指導でタントラの修行をたくさんした話をされました。 以下、1885年7月15日(水)の「コタムリト」を見てみましょう。 〔以前の話--ベルタラでタントラの修行--バラモンの女修行者の準備〕 「ベルの樹の下で、タントラの修行をたくさんしたよ。  人間の頭蓋骨を使ったり--それから、×××座布(シート)が要った。  バラモンの女修行者がみんな用意してくれた。   ……(後略)…… さて、マヘンドラ・グプタが正確な記述を隠した ×××座布(シート)とはどんなシートだったのでしょうか? それは〝裸になって横たわった女性〟のことらしいのです。 裸になって横たわった女性を前にして、欲情を起こすことなくその裸婦の上に坐るというタントラの修行をバラモンの女修行者はさせたようです。 人間の頭蓋骨は記述しても、裸の女体座布(シート)はマヘンドラ・グプタも記述をためらったのでしょう。
  • ・聖ラーマクリシュナが骨折した理由はバールベラ?
    1885年12月23日付け「コタムリト」にバールベラ(木曜日の午後の旅立ち)を校長ことマヘンドラ・グプタに注意しているが、過去、聖ラーマクリシュナはバールベラが原因で骨折をしたことがある。 詳しくはこちらから→
  • ・極めて低かったヒンドゥー社会における女性の地位
    1885年10月30日(金)のコタムリトに医者のサルカル先生の言葉として、次のような記述がある。  お孫さんが一人生まれましてね、(サルカル)先生はお嫁さんを大そうほめておられました。 『一日中、家の中に嫁がいることに気付かないほどだ。それほど、うちの嫁は静かで恥ずかしがり屋で……』と言って」 現代では、気丈でしっかり者の女性の評価が高いが、サルカル先生は、お嫁さんが静かで恥ずかしがり屋で控え目なことをほめている。この言葉からは、当時の女性に求められていた態度や地位を推察することが出来る。 詳しくはこちら→
  • ・ラーマクリシュナとアヒンサー(不殺生)について
    ラーマクリシュナがアヒンサー(不殺生)に関して、どのような考えを持っていたかを知る記述を見つけましたのでご紹介します。一つはバララーム・ボースへの教えで、もう一つはヨーギンへの教えです。詳しくはこちらから→
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