top of page

​日本に初めてラーマクリシュナと

ヴィヴェーカーナンダの教えを伝えた

​佐野甚之助の生涯

 

 

佐野甚之助の生涯については詳しくは知られていない。

断片的な資料によって以下にまとめてみた。

佐野甚之助の生涯を次の四つに分けて見てみることにしよう。

 

1)出生から慶應義塾時代

明治15年~明治38年(0~23才)

2)インド滞在

明治38年~大正3年(23~32才)

3)日本での活動

大正3年~昭和13年(32~56才)

4)佐野甚之助の執筆

 出生から慶應義塾時代 

 明治15年~明治38年(0~23才)

 

​(1)誕生

 佐野甚之助は明治15年(1882)3月、渡島国(おしまのくに) 爾志(にし)郡熊石(くまいし)村(現・北海道二海郡八雲町/函館の北西約70㎞)で佐野甚左衞門の長男として生まれた。

 

​(2)慶應義塾入学

 明治28年(1895)、甚之助13歳のとき上京し、翌年(1896)1月、慶應義塾幼稚舎八年生として入学する。佐野はこの時から福沢諭吉家の一室に寄宿して通学している。佐野家と福沢諭吉とのつながりは、はっきりとは分からないが、佐野家は北海道熊石村の名家であったため福沢諭吉と何らかの縁を結んでいたのかも知れない。

 福沢家の中で生活を共にする中で、福沢諭吉の子息たちとも親しく交流して強い信頼関係を築いている。福沢諭吉の三男の福沢三八は佐野より一つ年上、四男の大四郎は一つ年下、孫の中村愛作は二つ年下であった。そんな彼らと同じ屋根の下で生活を共にしたのであるから、福沢諭吉の家族のような環境で学生生活を過ごしたのであった。それを示すものとして、明治31年、福沢諭吉は脳溢血により障害を負うが、そのリハビリを兼ねた学生を引き連れた早朝の散歩を「散歩党」と称していたが、佐野もその散歩に加わっていた。また、明治34年(1901)2月、福沢諭吉が亡くなった葬儀の時には、樒(しきみ)を参列者に手渡す役を任されている。

 結果的に佐野甚之助は、福沢諭吉の影響を多分に受けている。

 

​(3)自尊党設立

 福沢家の一室に寄宿して勉学に励む中、明治30年(1897)、福沢家の一室を本部として、福沢諭吉の三男の三八、四男の大四郎、孫の中村愛作、同じく寄宿していた島津理左衛門、そして佐野甚之助の五名で「自尊党」という集会を結成している。福沢諭吉を総裁に据えて、三八が実質上の責任者・副総裁となった。二年後には後の吉田内閣で文部大臣となる高橋誠一郎も加わった。自分の思うところを思うままに放談し、議論を交わす場であった。演説会と称して一人が演説し、他の人が聴衆となって意見を述べ合うことも行った。

自尊党.jpg

(三列目)右から

  一番目:島津理左衛門

  三番目:高橋誠一郎

  四番目:福沢大四郎

  五番目:中村愛作

(二列目)中央

  左=福沢諭吉

  右=福沢三八

(一列目)右から

  一番目=佐野甚之助

(明治33年4月7日)

福沢三八(福沢諭吉・三男)の欧州留学出発前記念」

 

「慶應義塾体育会蹴球部百年史」より

 

 福沢諭吉は晩年の業績として明治32年に「日本人としてのあるべき姿」を示した『修身要領』を世に問うて広めたが、自尊党では幾たびも『修身要領』を反復読誦し、各項目を論じ、先人たちの意見、演説を聞き学習していった。福沢諭吉もこれを広めるために演説会を催した。福沢諭吉は明治34年2月に死去するが、演説会は諭吉の死後も有志によって続けられ、佐野甚之助も壇上に立って講演をおこなっている。このことから、佐野甚之助にとって『修身要領』で述べられている日本人としての身のあり方、徳目は佐野の心身に染み込んでいたものと容易に想像される。

 

​(4)柔道部入部

 佐野は、インドに渡る大きな要因となる「柔道」を学生時代に学んでいる。明治30年(1897)、佐野が15才の時に柔道部に入部し、嘉納流の二人の教師、山下義韶(やましたよしつぐ)、内田良平に就いて柔道を学んでいる。

 佐野が柔道を始めたきっかけは、自尊党のメンバーの島津理左衛門や福沢大四郎や中村愛作が柔道を学んでいることから、その影響で始めたのではないかと考える。

慶應義塾柔道部(明治31年).jpg

(五列目)右から

  七番目=島津理左衛門

(四列目)右から

  三番目=佐野甚之助

  五番目=福沢大四郎

  六番目=中村愛作

(三列目)左から

  四番目=柴田一能

二列目)中央

  福沢諭吉(左)

  山下義韶師範(右)  

「卒業生送別記念」     明治31年(1898)

 

「慶應義塾柔道部史」より

 柔道部師範の山下義韶(やましたよしつぐ)は講道館四天王の一人で、嘉納治五郎の信頼は厚く講道館史上初の十段を贈られた人物である。慶應義塾で師範を務めた山下は明治36年(1903)、柔道の普及の為にアメリカに渡り、倍以上の体重差のレスラーを相手に勝っている。この試合を見たルーズベルト大統領は自ら山下の弟子となり練習に励み、アメリカ人で初めて茶帯を与えられた。山下は海軍兵学校の教官に抜擢され、その後ハーバード大学でも柔道を教えている。

 山下義韶が柔道普及の為にアメリカに渡るのを目にしたことは、佐野がインドに渡る動機の一端を担ったことは容易に想像できる。

慶應義塾柔道部(明治36年山下師範渡米送別記念).jpg

(二列目)中央

  山下義韶師範(紋付き左)

(二列目)左から

  二番目=中村愛作

(三列目)左から

  二番目=佐野甚之助

「山下師範渡米送別記念」   明治36年(1903)

 

「慶應義塾柔道部史」より

 明治38年、慶應義塾卒業時には二段になっていた。

慶應義塾柔道部(明治38年時代の有段者).jpg

(二列目)左から

  二番目=佐野甚之助

  三番目=堀切善兵衛

  四番目=内田良平師範

​  五番目=中村愛作

  六番目=秋山孝之輔

「堀切、中村、秋山、佐野 四氏外遊送別記念」 明治38年(1905)

 

「慶應義塾柔道部史」より

 

​(5)蹴球(ラグビー)部兼任

 佐野は慶應義塾で柔道をしていた為に、日本人として初めて蹴球(ラグビー)の試合を行ったメンバーの一人となっている。

佐野甚之助(初試合前/1901年12月7日).jpg

(一列目)左から

  一番目=佐野甚之助

(二列目)左から

  三番目=クラーク

(エドワード・ブラムウェル・クラーク)

  四番目=田中銀之助

 明治34年(1901) 12月7日

「日本最初のラグビーの試合の出場メンバー」

「慶應義塾体育会蹴球部百年史」より

 

 ここで少し寄り道となるが、佐野甚之助が日本で初めてのラグビーの試合に参加したいきさつを述べてみたいと思う。

 

 日本にラグビーを広めた立役者は日本人の田中銀之助とイギリス人のクラーク氏の二人である。田中銀之助はイギリスに9年間留学し、最終的にケンブリッジ大学を卒業したが、田中は留学中にラグビーに触れる機会があり、熱心に挑戦して大学の代表として試合に出場するまでになった。

 また、慶應義塾で語学講師であったクラーク氏は自らもラグビーをしていたので、日本でラグビーを広めるべく、慶應義塾の生徒にラグビーの素晴らしさを語り、ケンブリッジ出身の日本人でラグビーをよく知っている田中銀之助を皆に紹介した。ここに日本人として初めてのラグビーチームの発足が計画される。しかし、危険な運動だということで試合を行うだけの参加者が集まらず、柔道部などに所属していた体育会の学生を集めて練習が始まった。そんな中、声がかかったのが佐野甚之助である。佐野は他の5名の柔道部員(松岡正男、吉武吉雄、濱田精蔵、海江田平八郎、塩田賢次郎)と共にラグビーの練習も行った。

佐野甚之助(1903年4月).jpg

 (一列目)右から

   一番目=佐野甚之助(柔道部)

 (二列目)右から

   二番目=海江田平八郎(柔道部)

​   四番目=クラーク

   五番目=塩田賢次郎(柔道部)

   六番目=松岡正男(柔道部)

   八番目=濱田精蔵(柔道部)

「明治35年度 卒業記念写真」   明治36年(1903) 4月

 

「慶應義塾体育会蹴球部百年史」より 

 指導した田中銀之助は、ラグビーは柔道や剣道のように男性的な競技であるから、ラグビーをする者はジェントルマン(紳士)として品位を持って行動すべし、とケンブリッジ仕込みのラグビーの精神を皆に教えたのであった。後にインドに渡る佐野の国際的な教育は、ここでもすでに始まっていたのかも知れない。また佐野のインド滞在中、マイソールにおいて軍隊及び警察の顧問として迎えられるが、この時のラグビーの経験もその大きな要因となったのかも知れない。

 そして、明治34年(1901)12月7日、日本で初めての日本人チームによるラグビーの試合が行われた。対戦相手は横浜外国人クラブ(YC&AC/Yokohama Country & Athletic Club)で、横浜公園にて行われた。佐野のポジションはスリークォーター・バックであった。この試合では日本ラブビー史に残る歴史的な記録も生まれた。左のウィング・スリークォーター・バック塩田賢次郎によって、日本人によるトライ第1号が生まれたのである。

 

​(6)福沢諭吉の理想を身につけた佐野甚之助

 

 こうして見ていくと、佐野甚之助の慶應義塾時代は、福沢諭吉の理想とする人物像を追求しつつ、柔道やラグビーで心身の鍛練を怠ることなく、当時の日本ではまれに見る国際感覚を身につけた文武両道の青年であったと言えよう。

 インド滞在時代 

 明治38年~大正3年(23~32才)

 

​(1)佐野がインドに渡った背景

 タゴールの父デベンドロナトは、瞑想の堂と修行の場を建てるために、カルカッタから北へ150㎞程の場所に広い土地を用意していた。タゴールはそこに、大自然の中で自由な雰囲気での教育を理想として、ウパニシャッド時代の修行と学習を現代に再現しようと、1901年12月にシャンティニケトン(平和郷)という私塾を作った。

 そして翌年1902年、日本から岡倉天心たちがカルカッタにやって来た。共に来た堀至徳(ほりしとく)はサンスクリットの学習のためにシャンティニケトンに滞在した。日本人との親交を深める中、タゴールはシャンティニケトンの生徒たちに柔道と日本語を学ばせたいと考えた。これは、幼少期に自らが格闘家からレスリングを習っていたことが一つの要因になっているかも知れない。

 慶應義塾が発行する『時事新報』には

「子弟に日本語を教えてくれる適当な教師を紹介してくれと(1904年)5月頃、河口慧海氏に依頼があったので、河口氏は弟の河口平揚氏にその旨を伝え、平揚氏はそれ以後交渉を重ね、佐野甚之助氏を選定した次第である」とある。『時事新報』には柔道のことは記述されていない。

 河口慧海は前年の1903年サンスクリット研究のためにインドに渡り、タゴール邸にも寄宿していたのでタゴールとは旧知の間柄であり、タゴールは柔道と日本語を教える人物の派遣を河口慧海に依頼したのではないだろうか。

 タゴールからの依頼であるから、河口慧海への依頼は岡倉天心にも伝わったと思われる。岡倉天心と講道館の嘉納治五郎は東京大学の学友であり、嘉納治五郎は渡米した山下義韶の後任として慶應義塾の師範をしていた内田良平にも相談して、人選を重ねたのではないだろうか。

 

​(2)佐野甚之助が選ばれた理由

佐野甚之助が選ばれた理由は何だったのだろうか。

と言うよりは、佐野以外に適任者はなかったように感じる。

以下にその理由を記してみよう。

1)柔道が上手かったこと。

卒業時には二段になっていた。

2)国際的な感覚を身につけていたこと。

福沢諭吉が培ってきた国際感覚を肌で感じ、周囲の人たちの多くが海外に目を向けており、柔道の山下義韶師範、福沢三八、中村愛作、堀切善兵衛、秋山孝之輔などたくさんの知人がアメリカやイギリスに渡っていた。

3)英語が出来たこと。

ラグビーを教えてもらったクラーク氏は慶應義塾の語学教師であったことなど、明治時代にもかかわらず英語が身近にあり身につけていた。

4)イギリスのジェントルマンの精神が身に付いていたこと。

田中銀之助が、ラグビーをする者はジェントルマンでなければいけないと​しきりに教えていた。

5)外国人との交流があったこと。

外国人とのラグビーの試合などを通じて、外国人と交流する機会がとても多かった。

 

​(3)シャンティニケトン時代

 

(1905年~1908年)

 

 インドでの佐野甚之助の動向は詳しくわかっていない。佐野といっしょに招聘(しょうへい)された日本画家の勝田蕉琴(かつたしょうきん)の記述を見ると、

「明治38年(1905年)の秋だったと思いますが、(岡倉)天心先生のお世話で、佐野甚之助さんと私の二人が、タゴール家に招かれて行きました。佐野さんは柔道の関係で呼ばれたので、始めしばらくラビンドラナート(タゴール)さんの家にいましたが、後にシャンティニケトンで柔道を教えました」とある。

 

 また石田新太郎の記述によれば、「詩人タゴール氏の招聘に応じてインドに渡りその家庭教師をした」ともある。

 

 佐野がインドに渡ったのは明治38年(1905年)秋で、最初はタゴール一族の屋敷があるカルカッタのジョラサンコに滞在してタゴール家の家庭教師をした後、タゴールの私塾であるシャンティニケトンに移って日本語と柔道を教えたようである。たぶん3年間の契約がなされていたようでシャンティニケトンには明治41年(1908年)まで滞在している。シャンティニケトンでの佐野の動向についてはほとんど記録が残っていない。帰国後、佐野はタゴールやインドに関する記述「タゴール先生と自分」を残しているので、それらを足がかりに追っていきたい。

 これはタゴールがノーベル文学賞を受賞したあと、タゴールを日本に招こうとして大正4年(1915年)に刊行された『名士のタゴール観』という本に掲載されている記述である。これを読むと、佐野がシャンティニケトンで教えたのは日本語が主で、柔道が副のように見えてくる。佐野自身も「ロビンドラ・ナート・タゴール先生に招聘(しょうへい)されて、ベンガル州の片田舎に設立せる先生の私塾に、日本語と柔道の教師として赴任した」「私は前に言った通り、日本語と柔道の教師として居ったのです」というように、いつも「日本語」を「柔道」より先に記述しているので日本語の授業が重視されていたことが予想される。

 以下、「タゴール先生と私」からシャンティニケトンでの佐野の状況を見ていきたい。

 

「タゴール先生と自分」を元に記述

 佐野は初め、タゴール一族の住むカルカッタのジョラサンコの邸宅で家庭教師をしていたようだ。ジョラサンコの邸宅は祖父の名前のついたドワーカ・ナート・タゴール通り6番地という場所にあり、皆はその邸宅を「タゴール城」と呼んでいたそうである。その後、シャンティニケタンに移ったようである。

 佐野はシャンティニケトンについて次のように紹介している。

 カルカッタのハウラ駅から鉄道で160キロばかり北にボンプールと言う小さな駅があり、ここで下車してさらに数キロ北に向かったところに赤土ばかりの荒野の真っ直中に、数個の建物が立っています。ここがシャンティニケトンで、シャンティニケトンとは「平和の郷(さと)」という意味です。ここにある建物は、梵協会(ブラフマ・サマージ)の礼拝堂、訪問客の宿泊所、校舎、寄宿舎、及びタゴール先生の住居などです。礼拝堂と宿泊所とは立派ですが、先生の住居や教師・生徒の寄宿舎はとても質素なもので、泥土で壁を塗り、粗末な瓦、又は茅葺き屋根で、室内には何もないと言っていい程でありました。タゴール先生の住居にしても、叩き土の六畳くらいの部屋に、ただ一枚のゴザ、一枚の座布団、一個の小さな机、及び数冊の書籍が置いてあるだけです。そして、開け放って四方を見れば、右を見ても左を見ても、すぐに果てしなく広々としたベンガル平原をその両目に収めることが出来ます。

「シャンティニケトン(平和の郷)」は村落より数キロも離れているので、俗世の煩わしさから離れて極めて閑静な場所で、修養を積み、黙想にふけるには最も適した場所です。晴天のときは教師も生徒も共に木陰に座して修学し、降雨の時は寄宿舎の縁側を教室の代わりに充てるという有様でした。すなわち、常に生徒に自然を楽しませ、その中で自らを啓発するように、感化、指導しているのです。

 

 佐野は日本にいる間、シャンティニケトンの私塾は慶應義塾のように一つの堂々とした大学(カレッジ)で、学生も数百名くらい在籍すると想像していたらしいが、いざ来てみると、8、9才の子供から14、15才の生徒がわずか30名ばかりしかいなかったので、これには驚いたようだ。それもそのはず、シャンティニケトンはわずか3年ほど前に生徒5人で始めたのであった。岡倉天心も河口慧海もジョラサンコのタゴール邸は訪れているが、だれもシャンティニケトンの様子を伝えている日本人はいなかったので仕方がないかも知れない。

 佐野は柔道以外に日本語も教えたが、日本語の生徒の数は、特に選抜された優秀な12~3才の学生が8名だけであった。学生たちは英語を学んでいたので、佐野も自身のブロークン・イングリッシュで教えた。ローマ字を使って教えようとしたが、タゴールの要請でカタカナを使って教えたそうだ。日本語とベンガル語は文法が似ているので生徒はすぐに覚えていったらしい。

 また、佐野はなぜタゴールが柔道を教えるために自分を呼んだか、次のように書いている。

 インドの中でも特にベンガル地方の人間はやたらと太っていたり、あるいは棒のようにやせ細っていたりして、筋肉が発達している者は多くない。これは民族自体が安楽を好み、勇気に乏しく、体育を好まないためで、どこの学校でも体育の教科などは設けていない。タゴール先生が私を招聘した理由は、強健な身体作りの必要性を感じていたからであったのだ。

(『名士のタゴール観(大正4年/1915年)』収録)

佐野甚之助(シャンティニケトンにて).jpg

​(右より)

ショモレンドロナート

 (タゴールの従弟の子)

佐野甚之助

オボニンドロナート

 (タゴールの従弟の子)

河口慧海

ロビンドロナート・タゴール

勝田蕉琴(かつたしょうきん)

 (日本画家)

ゴゴネンドロナート

​ (タゴールの従弟の子)

1906年初め頃

「タゴール家自宅の庭にて」

 

「大倉精神文化研究所」より提供 

 佐野が翻訳したタゴールの「ゴーラ」の序文によると、佐野はタゴールのもとに来てすぐに、インドからの通信文として、タゴールを日本社会に紹介したようである。残念ながら、その記事は見つからなかった。タゴールは佐野がシャンティニケタンに滞在中に「ゴーラ」を執筆中だったようである。たくさんのタゴールの著作の中から佐野が「ゴーラ」を翻訳したのは、その創作の様子を間近に見ていたからであろう。

佐野甚之助(柔道の生徒と共に).jpg

シャンティニケタンで柔道の生徒と共に

「​牧野財士氏 資料」より

 

 また柔道の指導に関して言えば、佐野が柔道を教えたのは男子生徒のみならず、女子生徒にも柔道を教えていたようである。

 1908年からシャンティニケトンの校長を務め、後にはタゴールが設立したヴィシュヴァ・バーラティ大学の副学長になり、タゴール来日の時に同行したクシティモハン・センというサンスクリットの学者がいるが、その娘アミタ・センも佐野から柔道を習った女子生徒の一人だった。彼女はシャンティニケタンの生まれである。

 また彼女の息子もシャンティニケタンの生まれで、1998年に「経済の分配・公正と貧困・飢餓の研究」によってアジア初のノーベル経済学賞を受賞したアマルティヤ・センである。

 

 タゴール研究家の我妻和男氏によれば、イギリスからの独立を目指して活動していたインド人には、武器を持たずして独立を果たすには身体の鍛錬も必要だが、棒術という棒を用いて戦うのも有効であるとして、柔道以外に棒術も教えていたと述べている。

 

 岡倉天心が是非、日本に招きたいとわざわざインドに渡った人物、さらに明治天皇からも来日を要請されたヴィヴェーカーナンダとはいったいどんな人物なのか、佐野甚之助は関心を抱いていたのではないだろうか。

 タゴールはタゴールでヴィヴェーカーナンダのことをたいへん尊敬していて、あれほどきれいなベンガル語を話す人間はほかにいないと大絶賛していたので、ヴィヴェーカーナンダの世界的な活躍も含め、タゴールの見たヴィヴェーカーナンダの姿も佐野に話して聞かせたのではないかと想像している。そのことが、帰国後、初めて日本にヴィヴェーカーナンダの教えを紹介する原動力になったのではないだろうか。

 佐野がシャンティニケトンに滞在していた当時、ヨーガーナンダ、ニランジャナーナンダ、ヴィヴェーカーナンダの3人を除くラーマクリシュナの直弟子は存命で、佐野甚之助がラカール・マハラジ(ブラフマーナンダ)が僧院長をしていたラーマクリシュナ僧院を訪れた可能性は高いと思っている。

 

​(4)コーチ・ビハール時代

 

(1908年~1911年)

 

 シャンティニケトンを離れた佐野は、タゴールの紹介で1908年からベンガル州北東の王族コーチ・ビハール王家の家庭教師となる。コーチ・ビハール王国は藩王(ラージャ)の国で現在のバングラデシュの北に位置し、あと30㎞ほど北はブータンである。1947年にインドに編入した王国である。コーチ・ビハール王国はブータンやチベットへの玄関口に近いので、佐野はチベット文化にも触れていたことは容易に想像できる。

 余談ではあるが、1872年にケーシャブ・チャンドラ・センらの努力で子供・若年婚禁止のために成立した婚姻法に違反して、1878年にケーシャブが自分の14歳の娘を藩王に嫁がせたのが大問題になってケーシャブ率いるインド・ブラフマ協会は分裂することになったが、ケーシャブが娘を嫁がせたのがコーチ・ビハール王国である。従って佐野が、44歳になっていたケーシャブの娘に会った可能性は非常に高い。

 

​(5)マイソール時代

 

(1911年~1914年)

 

 佐野はその後、南インド、マイソール王国の政府に、軍隊及び警察の顧問として招聘されている。慶應義塾時代に柔道以外にラグビーもしていたこと、またシャンティニケタンでは棒術も教えていたことなども有利に働いた可能性が高いと思われる。『慶應義塾百五十年史資料集』には大正元年(1912年)には宮廷事務局秘書(インド、マイソール)と記録されている。

 

 インドの北の果てコーチ・ビハールから、次はインドの南の果てである。シャンティニケトンやコーチ・ビハールの公用語はベンガル語で、タゴールの著作を翻訳した佐野甚之助もベンガル語は話せるようになっていたはずであるが、マイソールの公用語はカンナダ語と英語なので佐野は英語を話したものと思われる。

 

 ここで特筆したいのは、なぜベンガルにいた佐野が南インドのマイソールに来たのかという点である。佐野は帰国後、大正15年(1926年)にスワミ・ヴィヴェーカーナンダの講話を翻訳して発表しているが、インド放浪中のスワミ・ヴィヴェーカーナンダはマイソールの藩王(ラージャ)に会って、アメリカの宗教会議のことを藩王(ラージャ)に告白し相談している。ラージャからは旅費などの援助の申し出があったことが知られており、マイソールから少し南下するとコモリン岬である。佐野は、北はヒマラヤから南はコモリン岬まで足を伸ばしていたことが分かっているので、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの足跡をたどってインド各地を遍歴したのではないかと想像することも出来る。

 

​(6)インド各地を訪問

 

 佐野はインド各地を巡って、多くのインド人の家庭に出入りして、その生活やインド社会を観察したと、「印度及び印度人」の序文で述べている。時間を見ては、インド各地を巡っていたのだろう。「印度及び印度人」は佐野が帰国して3年後に出版した、インドの社会、経済、産業、政治、宗教、気候、民俗、歴史など、ありとあらゆる分野でインドを解説した本である。

 日本での活動 

 大正3年~昭和13年(32~56才)

 

​(1)帰国

 

 佐野甚之助は9年間のインド滞在を経て、大正3年(1914年)4月に帰国して、一旦故郷の北海道に戻っている。その翌年、大正4年(1915年)より母校である慶應義塾の大学部予科の教員に採用され、「日本作文」の授業を受け持っている。

 

​(2)タゴールとの交流

 

 佐野甚之助は帰国した後もタゴールと交流を深めていたようである。特にタゴール来日の際は親しく交流している。3回の来日の中、一回目と二回目の来日ではその動向が記録されている。

 

タゴール 一回目の来日 大正5年(1916)

「東京朝日新聞」大正5年6月3日の記事より

「本社主催のタゴール氏講演会は一日午後6時から天王寺公園公会堂において開催された。午後4時前から聴衆が次々と詰めかけ、6時頃には早満員となり、その数三千に達した。定刻に至るや、本社員石橋為之助氏、開会の挨拶をなし、次いで佐野甚之助氏登壇、タゴール氏の人格と印度の風物について紹介をなす。8時頃になってタゴール氏は河口慧海氏、並びに本社員同乗の自動車を駆りて会場に到着せり。氏は白色のベンガル服を着て、えび茶色のトルコ帽をかぶって悠々と休憩室に入られた。

 やがて氏が河口慧海師に付き添われて壇上に表われるや、三千の聴衆は一斉に拍手した。かくてタゴール氏は魚岩楼の座敷で興に乗じて新たに書き換えた英文の原稿「印度と日本」を朗読する。その声、朗々として天使が美しい自然を賛美しているようである。朗読は25分余りも続き、この間、針の音もしないような静粛さであった。

 佐野がシャンティニケトンで知り合った画家のムクル・チョンドロ・デは、その美術家としての才能をタゴールに認められ、初来日の際に随行して来日している。その時の様子を自身の著作の中で次のように書き記している。
「横山大観や、佐野甚之助や、日本の要人が集まってきて迎えてくれた」

「日本人がタゴールのことを第二のお釈迦さまと呼んで大歓迎をしてくれた

 また佐野の長女北原友季子が後年、雑誌「さちや」に『タゴールさんの手』と題した寄稿には、タゴールとの面会を次のように述べている。

「私が武蔵野女子学院の二年の春、タゴールさんが来日され、私は父と帝国ホテルに参りました。広いロビーには、いろいろな人が三々五々集まって談笑しておりました。しばらくそこで待っていますと父が戻ってきて、そして私は父に促され、後について行きました。とある室のドアを押し、中に入りますと、アルバムにあるような立派な白髪の老人が、窓を背にしてふかふかとソファーに座っていました。父は私を紹介して、『これは私の娘で、十四歳です。』英語を習いたての私にはそれ以上はわかりませんでした。タゴールさんはニコニコして座ったまま手を差し出され握手をしてくださいました」

 

タゴール 二回目の来日 大正13年(1916)

 二回目の来日の際、佐野はタゴールを迎える為に上海に渡り、タゴール一行に合流して船で長崎に入港している。佐野はこの当時には日印協会の理事をしていたようで、タゴールの視察に随行している。

 日印協会の会長に就任していた渋沢栄一の「渋沢栄一伝記資料」には、大正13年6月の記録に以下の通り佐野甚之助の記載がある。

「6月12日」

飛鳥山邸における茶話会 参加者:佐野甚之助、(以下省略)

「6月13日」

日印協会佐野甚之助氏同伴でタゴール氏、板橋養育院へ来院、会議室において渋沢院長、田中幹事より養育院の沿革並びに現状について詳細な説明を聴取され、その後院内施設を視察の上、非常に満足の意を表して辞去せられた。(板橋養育院:渋沢栄一が主幹となって設立した弱者救済施設の一つ)

 

​(3)故郷への貢献

 

 佐野の故郷は北海道の熊石村(現・八雲町)であるが、熊石村の村史によれば、熊石村の主な産業は漁業で明治期にはニシン漁で栄えたが、大正時代に入りニシンが不漁となってからはイカ釣漁業に移り、時代は手漕ぎの船からエンジン付きの動力船へ移行してゆくが、港が十分に整備されておらず、かなり以前から築港の要望はあったが、なかなか実現せず、大正10年やっと熊石村村長が上京して帝国議会に誓願する運びとなった。

 このとき村長が頼ったのが東京在住で熊石村出身者の佐野甚之助と林甚之丞(はやしじんのすけ)である。特に佐野はその他の在京者四人とも協力して検討した結果、北海道会議員から議長を経て帝国議会衆議院議員となり、時の政友会幹事長であった中西六三郎氏と交渉する事を提案した。そして中西六三郎氏と面談、懇談を重ねた結果、政友会の決議案として国会に提出され、ついに目的を達したのである。

 

​(4)日本の精神文化の発信

 

 佐野甚之助は、大正14年(1925年)から仏教学者の高楠順次郎と浄土真宗の僧侶である桜井義肇(ぎちょう)らが設立したヤングイースト社が刊行した英文雑誌「ヤングイースト(Young East)」の発行者兼編集者として雑誌の発行に携わっている。

「ヤングイースト」は海外向けの仏教を中心にした月刊雑誌で、すべて英語で記述されている。手元にある大正15年(1926年)2月号のヤングイーストには木村泰賢によるPrimitive Buddhism(原始仏教)も寄稿されている。アメリカ人からの読書感想などの投稿も掲載されている。内容が深く、大正時代に仏教の研究がここまで進み、海外にまで発信していたことに驚きを隠せない。

Young_East(表紙).jpg

​ヤングイースト「表紙」

Vol 1. No. 9. (大正15年2月発行)

Young_East(奥付).jpg

​ヤングイースト「奥付」

『発行人兼編集人  佐野甚之助』と記載有

 

​(5)逝去

 

 佐野甚之助は9年間のインド滞在を経て、昭和13年(1938年)4月1日に逝去した。享年56歳であった。

 昭和13年、国際佛教協会発行の「海外佛教事情 昭和13年6月号」の中に佐野甚之助逝去時の記事が以下の通り載っている。

 

ヤングイースト誌の功労者、佐野甚之助氏逝く」

 ヤングイースト創刊以来永年発行人として日本文化の海外宣伝に努力せられた佐野甚之助氏は昨年来病臥中であったが、去る四月一日遂に逝去された。氏は特に日印文化関係の功労者であった。

 佐野甚之助の執筆 

 

​(1)佐野甚之助の著作

 

 国立国会図書館に登録されている佐野甚之助の著作は以下の通りで、4冊の単行本と7件の書籍・雑誌への寄稿が確認されている。

 

​・単行本 (以下の4冊)

印度及印度人(表紙).jpg

 

「印度及び印度人」丁未出版社刊

大正6年(1917年)6月

ゴーラ(背表紙).jpg

 

「ゴーラ(タゴール)」大雄閣刊

大正13年(1924年)12月

二つの指輪:印度創作集他三篇(ボンキム/佐野甚之助訳)奥付.jpg
二つの指輪:印度創作集他三篇(ボンキム/佐野甚之助訳)内扉.jpg

 

印度創作集 二つの指環 他三篇(ボンキム・チョンドロ・チャッタヂイ)」大雄閣刊

 

大正14年(1925年)4月

ガンデイと其思想(内扉).JPG
ガンデイと其思想(函).jpg

 

「ガンデイと其思想」立命館大学出版部刊

昭和2年(1927年)3月

 

​・書籍・雑誌への寄稿 (以下の7つ)

国民文学02.jpg
国民文学01.jpg

 

『タゴールの日常生活』「国民文学五月号」国民文学社刊

大正4年(1915年)5月

名士のタゴール観(目次)02.jpg
名士のタゴール観(目次)01.jpg
名士のタゴール観(表紙).jpg

 

『タゴール先生と自分』「名士のタゴール観」城南社刊

大正4年(1915年)8月

※「名士のタゴール観」には、木村泰賢、三浦関造、高楠順次郎などの他に、後に東京ラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ協会(日本ヴェーダーンタ協会の前身)の初代会長となる木村龍寛(のちの木村日記)の記述も掲載されている。

虎博士の学説(ページ1).jpg
現代佛教(第一巻九月号).jpg

 

『虎博士の学説(ボンキム・チャンドロ・チャッターヂー)』

「現代佛教  第一巻9月号」大雄閣

大正13年(1924年)9月

親鸞教(ゴーラを訳して).JPG
親鸞教.JPG

 

『ゴーラを訳して』「親鸞教 第44巻第3号」布教叢誌社刊

大正14年(1925年)3月

印度人の分身の話.jpg
同人.jpg

 

『印度人の分身の話』「同人」同人発行所

大正14年(1925年)4月

最高の信念.jpg
現代佛教(第四巻一月号).jpg

 

『最高の信念(ヴィヴィカーナンダ)』

「現代佛教  第四巻1月号」大雄閣

昭和2年(1927年)1月

道を求むるもの.jpg
佛教読本(表紙).jpg

 

『道を求むるもの(ラーマクリシナ)』「佛教読本」大雄閣刊

昭和3年(1928年)6月

 

​(2)ボンキム・チョンドロ・

 

チャッタヂイに関して

 

 佐野が翻訳した印度創作集 二つの指環 他三篇(インデラ、ラダラニー、虎博士の学説)」の著者、ボンキム・チョンドロ・チャッタヂイとは、ラーマクリシュナが存命中に対話した、当時から有名だった文豪「バンキム」のことである。ボンキムはベンガル語読みで、デーヴァナーガリー読みではバンキムとなる。

 

 ラーマクリシュナと当時46歳だったバンキム(ボンキム)との対話が、1884年12月6日(土)の「コタムリト」に詳しく収録されているので参照してもらいたい。

 ボンキムは1838年6月に現在の西ベンガル州で生まれた。幼い頃から偉才を示し、大学では法学士号を取得した最初のインド人となった。文学の才能も高く、ベンガル語で執筆し、ベンガル文学の先駆者と言われた。行政官となりベンガル各地で奉職するが、仕事の関係で祖国のいろいろな問題を知ると同時に、祖国の悪、欠点にも気づき、自国民を目覚めさせるために文学を用いて訴えた。彼が書いた著作や小説で紹介された「ボンデ・マトロム(バンデ・マタラム)」という歌は、全インドで国民歌として歌われ、インド独立に大いに貢献した。インドの国歌の候補にもなったが、ヒンドゥー色が強かったのでかなわなかった。

 ボンキムは政治活動には参加しなかったが、彼の著作が国民の愛国心を奮い立たせ、インド独立運動の大きな力となったことは間違いない。

主な参考文献

「名士のタゴール観」より『タゴール先生と私』佐野甚之助 城南社刊

「印度及印度人」佐野甚之助 丁未出版社刊

「二〇世紀初頭のインドにおける日本語教育:佐野甚之助の文献から」 

パンダ・ナビン・クマール 慶應義塾福沢研究センター

「タゴールの世界」我妻和男 第三文明社刊

「人類の知的遺産 タゴール」我妻和男 講談社刊

​「インドにおける日本語教育史の断面」白井桂 日本言語文化研究会

「随筆 慶應義塾」高橋誠一郎 慶應通信刊

慶應義塾体育会 蹴球部百年史」慶應義塾体育会・蹴球部黒黄会編 慶應義塾大学出版会刊​

bottom of page