日本で初めて紹介されたラーマクリシュナの教え
日本で初めて活字としてヴィヴェーカーナンダの教えを伝えたのは、大正15年、佐野甚之助が翻訳したヴィヴェーカーナンダの講話「最高の信念」だと思いますが、では、ラーマクリシュナの教えが日本で初めてを紹介されたのはいつでしょうか。またそれは誰によって、どのような教えが伝えられたのでしょうか。
現時点でそれを探るには過去の出版物に頼るしかありません。
いろいろ調べた結果、昭和3年6月に発刊された「佛教読本(高楠順次郎著/大雄閣刊)」に「道を求むるもの(ラーマクリシナ/佐野甚之助訳)」という記事が掲載されているのを発見しました。
ヴィヴェーカーナンダの教えを伝えた佐野甚之助は、ラーマクリシュナの教えも紹介していたのです。
「佛教読本(高楠順次郎著/大雄閣刊)」の序文の中で、高楠順次郎は次のように記しています。
……佐野甚之助君のラーマクリシナの小品は雑誌『あかつき』から選んだ。
(中略)……ここに謹んで上記の諸君に哀心感謝の意を捧げる次第である。
雑誌『あかつき』とは、高楠順次郎が主宰した仏教女子青年会の機関誌で、大正14年1月に創刊し昭和16年10月まで刊行された雑誌です。大正14年1月から昭和2年くらいまでの間に、ラーマクリシュナの教えが佐野甚之助によって初めて、雑誌『あかつき』に掲載されたようです。
ラーマクリシュナ研究会では『佛教読本』を入手できましたので、そこに掲載されていたラーマクリシュナの教えをご紹介します。
「仏教読本」
(高楠順次郎著/大雄閣刊)
(昭和3年6月12日発行)

「道を求むるもの」
ラーマクリシナ

「仏教読本」53ページ

「仏教読本」54ページ

「仏教読本」55ページ

「仏教読本」56ページ
「道を求むるもの」 (原文)
※ 下に(現代文)あり
ラーマクリシナは(一八三五-八六年)印度べンゴールの人、熱心なる吠檀多(ヴェーダーンタ)哲学の鼓吠者(こすいしゃ)にして、今は国人の間にラーマクリシナ宗の開祖として仰がる。その説く所多くの譬喩(ひゆ)を含めり。(佐野甚之助訳)
児童にして書を能くせんと欲せば、先づ粗大なる字を習ひ始むるが如く、我々にして形なきもの(仏)を信仰せんと欲せば、先づ形あるもの(仏像)に一向専念なるべし。
水禽の水に入りて水に濡れざるが如く、覚れる者は世にありて世に汚されず。
花蜜を得ざる蜂は唸(うな)りつゝ花のまはりを飛べども、一たび花蜜を得れば音もなくそれを吸ふ。教義教理を争ふ者は、未だ信仰の真の甘露を味ひたる者と言ふべからす。そを味へる者は静寂(じょうじゃく)なり。
牡蠣(かき)を得なば、真珠を取りてその貝殼を投げ捨てよ。教へを受けなば師の言に聴きて、師の短所をば心に留むること勿(なか)れ。
智慧は即ち慈悲。純なる智慧と純なる慈悲とは二にして一なり。
灯台は下暗くしてその光遠くに及ぶ。聖者に接する者は、その師を謬(あや)まることあれども、遠くの者は却(かえ)つてその偉徳を称(ほ)め讃ふ。
入梅の季節を示す暦をば、如何に圧搾(あっさく)するも、雨水の一滴だも得べからず。多くの訓言を読むとても、これを実行せざれば真人とならず。
泡は水より生じ、水に浮びて遂には水に帰するが如く、凡夫(ぼんぶ)も佛も遂には一如に帰す。その別は程度の差に過ぎず。一は小にして限りあり、他は大にして限りなし。一は従属し、他は自在なり。
米を得んとして籾(もみ)なき米を播(ま)くも実は生(な)らず。宗教の儀式も亦(また)斯(かく)の如(ごと)し。儀式は真理の種子の外皮なり。真理に達せんとせば或る儀式を経ざるべからず。
「道を求むるもの」 (現代文)
ラーマクリシュナ(1835~86)はインド、べンガル地方の人物で、熱心なヴェーダーンタ哲学の実践者で、今は国民の間でラーマクリシュナ宗の開祖として仰がれている。その教えには多くの比喩が含まれている。(佐野甚之助訳)
子どもが字を習おうとする時、最初は簡単な文字から習うように、我々が形のない神を信仰したいのであれば、先ずは一心に形のある神像に専念するのがよい。
水鳥が水の中に入っても濡れないように、覚った者は世俗の中にいても汚れることはない。
花の蜜を吸おうと蜂はブンブンいいながら花の周りを飛んでいるが、一たび花の蜜を得れば音もなくそれを吸う。教義・教理を争っている者は、まだ信仰の真の甘露を味わっているとは言えない。それを味わうと人は静かになる。
真珠貝を見つけて中の真珠を取ったら、貝殼は捨てなさい。教えを受けようと思うなら、師の言葉を聴いて、師の短所を心に留めてはいけない。
智慧と慈悲は同じ。純粋な智慧と純粋な慈悲は違うように見えるが同じものである。
灯台の下は暗くてもその光は遠くまで届いている。聖者の近くにいる者は師を正しく認識出来ないこともあるが、遠くにいる者はその偉大さをはっきりと認め讃える。
梅雨入りの季節を書いたカレンダーをいくら絞っても、一滴の雨水も得られない。たくさんの聖句を読んでも、それを実行しなければ聖者にはなれない。
泡は水より生じて、水に浮かんで、また水に戻るように、凡夫(ぼんぷ)も仏もついには一体となる。その違いは程度の差に過ぎない。凡夫は小さくて限りがあり、仏は大きくて限りがない。凡夫は従属し、仏は自在である。
米を作ろうと思うなら、籾(もみ)のない米を播(ま)いても米は実らない。宗教の儀式もそれと同じこと。儀式は真理の種子の外皮である。真理に達したいならば、いくらかの儀式は必要だ。