ブラジルのヴェーダーンタ協会創設に貢献した
「たかさん」こと 東 胤隆 さん
とう たねたか
戦後、日本からブラジルに渡り、ブラジルのヴェーダーンタ協会創設に貢献した「たかさん」こと東 胤隆(とう・たねたか)さんという日本人を御存じだろうか。
その東胤隆さんが2020年4月4日にお亡くなりになりました。ラーマクリシュナ研究会では、以前ブラジルで生活をされ今はインドに住んでおられるラーマクリシュナの日本人の信者の方から「たかさん」のことをお聞きして、「かたさん」の数奇で、しかも奇跡的な運命が日本の信者の方々への刺激となると思い、「たかさん」が歩んできた足跡を皆さんにお伝えいたします。
「たかさん」のことを次の5つの項目で見ていきたいと思います。
(1)ブラジルの信者に送られた訃報メール
「たかさん」
(2)ブラジルの機関誌で特集された
(3)日本でも紹介された「たかさん」
思い出
(4)信者の皆さんが語る「たかさん」の
スワーミー・ヴィジョヤーナンダ
(5)ブラジルにおける「たかさん」のグル、
ブラジルの信者に送られた訃報メール
「たかさん」こと東 胤隆さんが亡くなったことを知らせる、ブラジルのヴェーダーンタ協会から信者の方々に宛てられたメールを以下に紹介します。2枚の写真はメールとともに送られた写真です。
親愛なる友人のみなさん
東 胤隆(とう・たねたか)さんがお亡くなりになりましたことを深い悲しみをもってお知らせいたします。84歳でした。
医師によりますと、胤隆さんは2020年4月4日、日曜日の早朝にお亡くなりになったとのことです。健康状態に何一つ問題はなく、お亡くなりになる前夜には、お散歩にお出かけできるほど体調も良く、お食事もよく召し上がっておられました。

83才の誕生日に撮られたお写真
私たち皆の愛する胤隆さんはブラジルにヴェーダーンタが伝わり始めた当時(1959年)からの最も古いパイオニアのお一人でした。胤隆さんは日本に生まれ、1959年24歳でブラジルに移民されました。胤隆さんはブラマチャリヤのイニシエーションを、胤隆さんがいつも真心と敬愛を込めてお世話なさっておられた霊性の師、スワーミー・ヴィジョヤーナンダから授かりました。一流のピアノの調律師として名を知られた胤隆さんは、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ヴェーダーンタの教えを守ることに一生を捧げました。

スーワミー・ヴィジョヤーナンダ(中央)と共に(1960年代)
右下:「たかさん」
私たちは胤隆さんを、誠意と熱意と自制をもって理想向かう信仰者のお手本としていつまでも心に抱き続けるでしょう。素晴らしい胤隆さん、胤隆さんの死によって私たちのハートにはポッカリと穴が開いてしまいました。私たちは皆、胤隆さんの子供のような無邪気さ、飾り気のなさ、謙虚さを忘れることは決してないでしょう。
ここに私たちの悔やみの言葉とお祈りを捧げます。神聖なる祝福が胤隆さんと共にありますように。
皆いつも平和でありますように。
ラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ・アシュラム
ブラジルの機関誌で特集された「たかさん」
次に、2013年にブラジルのヴェーダーンタ協会の機関誌に特集が掲載された「たかさん」のインタビュー記事をご紹介いたします。
「たかさん」自身が語る、ご自分が歩んでこられた道です。




運命はすでに記されていた
東 胤隆(トウ・タネタカ)さんは1935年(昭和10年)8月27日、 東京のカトリック系の病院で生まれました。第二次世界大戦終戦までは、お父様が皇室の馬の繁殖を行う牧場を任されていましたので、子供時代の数年間は、家族と共に北海道で暮らしていました。東京が空襲で全滅してしまったことと、身近に非常に大勢の子供たちがお腹を空かせていたことが、たかさんの当時の悲しい思い出です。 サンパウロのアシュラムでは、『たか』という呼び名で親しまれています。 以下のインタビューでは日本とブラジルでの思い出、そして、なぜヴェーダーンタの教えが 50年以上もの間、たかさんの人生に必要不可欠なものであるのかをお話ししていただきました。

※以下、スペイン語の機関誌には(たねたかさん)と記載されていますが、ブラジルでの呼び名(たかさん)で記載しました。
「たかさん」こと
東 胤隆(とう たねたか)さん
日本 - 1935年 から 1959年
(質問者): 戦時中、子供時代をどのように過ごされたのですか?
(たかさん):戦時中は、一晩にして知り合いが亡くなっていくのを目にしました。顔見知りの人々が一晩にして亡くなっていくのです。目の前にいる人が、明くる日には死んでいるという有り様です。私は自問しました。『あの人は一体どこへ行ったのだろう? 身体はここにあるのに、身体の中に生きていたあの人は一体、どこに行ってしまったのだろう?』妹が生まれた時も、これと同じ類(たぐい)の疑問が起こりました。『この赤ん坊は、どこから来たのだろう? この身体の中で泣いているのは、一体誰なんだろう?』家族の者にも問いかけましたが、疑問の意味すら理解してもらえず、答えてはもらえませんでしたし、私もそのうちに忘れてしまいました。戦後、勉学に追われる日常が始まりました。母の紹介で、家族の友人のピアノ工房でピアノの仕事を教わり、そこで働く機会にも恵まれました。稼ぎは家族の生活を支える足しになりました。 神奈川大学の機械工学科を卒業しましたが、最初の仕事はピアノの調律でした。
(質問者): ブラジルに移住した経緯を教えてくださいますか?
(たかさん): ある日、仕事から帰宅する途中、地下鉄の通路に年老いた手相占い師が座っているのに出くわしました。 興味をそそられ、無言で手のひらを占い師に見せると、『あなたは海を渡り、そこでこの世のものとは思われぬ幸運に恵まれます!』と言われました。大ボラを吹かれたとその時は思いましたが、 今思うとあの占いは当たっていたのです。それから2週間後、街頭で小学校時代の友人に出くわしました。小学校卒業以来、何年も経ってから再会したにもかかわらず、お互いのことが一目でわかりました。彼は船乗りになっており、その暮らしぶりを教えてくれました。そして、ある美しい国のことも話してくれました。とても暮らし易く、彼に言わせれば、“この世の楽園”のような国のこと――それがブラジルだったのです。そして、ブラジルに移民するための手続きについても教えてくれました。当時24歳だった私は、友人の話に心底揺さぶられ、ブラジルへの移住について家族に相談しました。家族は全く反対しませんでした。こうして私は、59日間にわたる日本からブラジルまでの船路についたのです。ロシア人、中国人、日本人移民を乗せたオランダ船がリオデジャネイロの港についたのは、1959年11月9日のことでした。

出航の日、見送りの家族と共に
後列左(グレーのスーツ):たかさん
1959年9月12日

船上のたかさん:スーツにネクタイ姿
1959年9月12日

船上から見る見送りの家族
1959年9月12日
今、当時のことを振り返ると、友人との再会、地球の反対側に移住するという発想、そしてそれを実行するという決意、それらの全てが『お導き』だったということが明確にわかります。私には生涯を通じて、『お導き』が明らかにあるのです。いかにして、ごく自然に事が引き起こされ、タイミング良く人々に引き合わされていたのか、ハッキリとわかります。そして、それらの体験を通じて、子供時代に抱いていた疑問の答えが見いだされていったのです。

ブラジルへ向けての旅立ち
1959年9月12日