ブラジルのヴェーダーンタ協会創設に貢献した 

「たかさん」こと 東 胤隆 さん

 とう  たねたか

 

 

 戦後、日本からブラジルに渡り、ブラジルのヴェーダーンタ協会創設に貢献した「たかさん」こと東 胤隆(とう・たねたか)さんという日本人を御存じだろうか。

 その東胤隆さんが2020年4月4日にお亡くなりになりました。ラーマクリシュナ研究会では、以前ブラジルで生活をされ今はインドに住んでおられるラーマクリシュナの日本人の信者の方から「たかさん」のことをお聞きして、「かたさん」の数奇で、しかも奇跡的な運命が日本の信者の方々への刺激となると思い、「たかさん」が歩んできた足跡を皆さんにお伝えいたします。

 

「たかさん」のことを次の5つの項目で見ていきたいと思います。

(1)ブラジルの信者に送られた訃報メール

「たかさん」

(2)ブラジルの機関誌で特集された

(3)日本でも紹介された「たかさん」

思い出

​(4)信者の皆さんが語る「たかさん」の

​スワーミー・ヴィジョヤーナンダ

(5)ブラジルにおける「たかさん」のグル、

 ブラジルの信者に送られた訃報メール 

 

「たかさん」こと東 胤隆さんが亡くなったことを知らせる、ブラジルのヴェーダーンタ協会から信者の方々に宛てられたメールを以下に紹介します。2枚の写真はメールとともに送られた写真です。

 

​  親愛なる友人のみなさん

 東 胤隆(とう・たねたか)さんがお亡くなりになりましたことを深い悲しみをもってお知らせいたします。84歳でした。

 医師によりますと、胤隆さんは2020年4月4日、日曜日の早朝にお亡くなりになったとのことです。健康状態に何一つ問題はなく、お亡くなりになる前夜には、お散歩にお出かけできるほど体調も良く、お食事もよく召し上がっておられました。

「たかさん」83才.jpg

83才の誕生日に撮られたお写真

 私たち皆の愛する胤隆さんはブラジルにヴェーダーンタが伝わり始めた当時(1959年)からの最も古いパイオニアのお一人でした。胤隆さんは日本に生まれ、1959年24歳でブラジルに移民されました。胤隆さんはブラマチャリヤのイニシエーションを、胤隆さんがいつも真心と敬愛を込めてお世話なさっておられた霊性の師、スワーミー・ヴィジョヤーナンダから授かりました。一流のピアノの調律師として名を知られた胤隆さんは、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ヴェーダーンタの教えを守ることに一生を捧げました。

 

「たかさん」アシュラムにて②.jpg

スーワミー・ヴィジョヤーナンダ(中央)と共に(1960年代)

             右下:「​たかさん」

  私たちは胤隆さんを、誠意と熱意と自制をもって理想向かう信仰者のお手本としていつまでも心に抱き続けるでしょう。素晴らしい胤隆さん、胤隆さんの死によって私たちのハートにはポッカリと穴が開いてしまいました。私たちは皆、胤隆さんの子供のような無邪気さ、飾り気のなさ、謙虚さを忘れることは決してないでしょう。

 

  ここに私たちの悔やみの言葉とお祈りを捧げます。神聖なる祝福が胤隆さんと共にありますように。

 

 皆いつも平和でありますように。

 

ラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ・アシュラム

 ブラジルの機関誌で特集された「たかさん」 

 

 次に、2013年にブラジルのヴェーダーンタ協会の機関誌に特集が掲載された「たかさん」のインタビュー記事をご紹介いたします。

「たかさん」自身が語る、ご自分が歩んでこられた道です。

Vedanta_No1.jpg
Vedanta_No2.jpg
Vedanta_No3.jpg
Vedanta_No4.jpg

 

運命はすでに記されていた

  胤隆(トウ・タネタカ)さんは1935年(昭和10年)8月27日、 東京のカトリック系の病院で生まれました。第二次世界大戦終戦までは、お父様が皇室の馬の繁殖を行う牧場を任されていましたので、子供時代の数年間は、家族と共に北海道で暮らしていました。東京が空襲で全滅してしまったことと、身近に非常に大勢の子供たちがお腹を空かせていたことが、たかさんの当時の悲しい思い出です。 サンパウロのアシュラムでは、『たか』という呼び名で親しまれています。 以下のインタビューでは日本とブラジルでの思い出、そして、なぜヴェーダーンタの教えが 50年以上もの間、たかさんの人生に必要不可欠なものであるのかをお話ししていただきました。

Vedanta_No2(写真).jpg

※以下、スペイン語の機関誌には(たねたかさん)と記載されていますが、ブラジルでの呼び名(たかさん)で記載しました。

「たかさん」こと

胤隆(とう たねたか)さん

​ 日本 - 1935年 から 1959年

 

​(質問者): 戦時中、子供時代をどのように過ごされたのですか?

(たかさん):戦時中は、一晩にして知り合いが亡くなっていくのを目にしました。顔見知りの人々が一晩にして亡くなっていくのです。目の前にいる人が、明くる日には死んでいるという有り様です。私は自問しました。『あの人は一体どこへ行ったのだろう? 身体はここにあるのに、身体の中に生きていたあの人は一体、どこに行ってしまったのだろう?』妹が生まれた時も、これと同じ類(たぐい)の疑問が起こりました。『この赤ん坊は、どこから来たのだろう? この身体の中で泣いているのは、一体誰なんだろう?』家族の者にも問いかけましたが、疑問の意味すら理解してもらえず、答えてはもらえませんでしたし、私もそのうちに忘れてしまいました。戦後、勉学に追われる日常が始まりました。母の紹介で、家族の友人のピアノ工房でピアノの仕事を教わり、そこで働く機会にも恵まれました。稼ぎは家族の生活を支える足しになりました。 神奈川大学の機械工学科を卒業しましたが、最初の仕事はピアノの調律でした。

 

​(質問者): ブラジルに移住した経緯を教えてくださいますか?

(たかさん): ある日、仕事から帰宅する途中、地下鉄の通路に年老いた手相占い師が座っているのに出くわしました。 興味をそそられ、無言で手のひらを占い師に見せると、『あなたは海を渡り、そこでこの世のものとは思われぬ幸運に恵まれます!』と言われました。大ボラを吹かれたとその時は思いましたが、 今思うとあの占いは当たっていたのです。それから2週間後、街頭で小学校時代の友人に出くわしました。小学校卒業以来、何年も経ってから再会したにもかかわらず、お互いのことが一目でわかりました。彼は船乗りになっており、その暮らしぶりを教えてくれました。そして、ある美しい国のことも話してくれました。とても暮らし易く、彼に言わせれば、“この世の楽園”のような国のこと――それがブラジルだったのです。そして、ブラジルに移民するための手続きについても教えてくれました。当時24歳だった私は、友人の話に心底揺さぶられ、ブラジルへの移住について家族に相談しました。家族は全く反対しませんでした。こうして私は、59日間にわたる日本からブラジルまでの船路についたのです。ロシア人、中国人、日本人移民を乗せたオランダ船がリオデジャネイロの港についたのは、1959年11月9日のことでした。

「たかさん」出航①.jpg

 出航の日、見送りの家族と共に

​ 後列左(グレーのスーツ):たかさん

  ​1959年9月12日 

「たかさん」出航②.jpg

 船上のたかさんスーツにネクタイ姿

​  1959年9月12日 

「たかさん」出航③.jpg

 船上から見る見送りの家族

​  1959年9月12日 

 

 今、当時のことを振り返ると、友人との再会、地球の反対側に移住するという発想、そしてそれを実行するという決意、それらの全てが『お導き』だったということが明確にわかります。私には生涯を通じて、『お導き』が明らかにあるのです。いかにして、ごく自然に事が引き起こされ、タイミング良く人々に引き合わされていたのか、ハッキリとわかります。そして、それらの体験を通じて、子供時代に抱いていた疑問の答えが見いだされていったのです。

「たかさん」出航⑤.jpg

 ブラジルへ向けての旅立ち

  ​1959年9月12日 

​ ブラジル - 1959年 から 2013年

 

​(質問者): ブラジルに着いて何がありましたか?

サンパウロでの生活はいかがでしたか?

 

(たかさん): 伯母(母の姉)がブラジルの首都、リオデジャネイロに住んでいました。伯母の夫は日本国大使でした。彼らはポン・ヂ・アスーカルのロープウェイの近くに住んでいました。リオデジャネイロで下船したその日に、伯母は私をロープウェイに乗せて頂上まで連れて行ってくれました。景色を眺めていると、友人の船乗りの言葉が思い出され、『楽園とは正に、ここのことだ!』と思いました。伯母の家に三日間世話になり、その後、船に戻りサントスまで移動しました。

中央に見える岩山がポン・ヂ・アスーカル で頂上に展望台があり、リオの有名な観光スポット。

 サントスで下船してすぐに、モジダスクルーゼスという所に連れていかれ、柿を栽培している大農場で働き始めました。働き始めて一ヶ月が過ぎた頃、農場主は私に、農場を離れて本来の職業で食べていくいことを勧めてくれました。その言葉に従い私は農場を離れて、州都サンパウロに向かいました。そしてサンパウロで、安い下宿屋に住み始めました。下宿人たちはほとんど皆、私と似通った状況に置かれていましたが、私には一週間足らずでピアノの調律師としての仕事が見つかりました。店長自らが設立した『カザ・レヴィー』というピアノの店で、技能的なテストが行われ、私は試験後、即採用となったのです。それは、ブラジルでの生活が保証されたことを意味していました。ピアノの修理と調律の仕事は今でも、私の日課の一部です。

「たかさん」ブラジルにて.jpg

 ブラジルでピアノの修理を行う「たかさん」

 

​(質問者): ヴェーダーンタにはどのように出会ったのですか?

(たかさん):ある日、ヴィラ・クレメンチーノ地区にピアノの調律に行くようにとの連絡が入りました。調律に行った家は、ジャイメ・アウグスト・ゴメスさんという方の設立した音楽学校兼ご自宅でした。ピアノ教師でもあった彼は独身で、お母さんの介護をしながら二人で暮らしていました。私はこの家で初めて、ヴェーダーンタについて耳にしたのです。この家には幾人かの人々が集まり、週末に瞑想をしていました。グループの中にはデロシス・ドゥルモンドさんという方がいました。彼女には予知能力があり、霊界のマスターと交霊するのでした。私がジャイメさんのお家を訪れる前に、霊界のマスターは、東洋の青年が現れると予言していたようです。そして、その青年が現れた時には見極めがつくとも。ですから、私がピアノの仕事で訪れた時、予言された青年が現れたのではないかと、皆、思ったようでした。私は再度訪問するように招かれ、その時家にいた全員に紹介されました。そしてジャイメさんは、家の地下にピアノの修理工房を設置し、同居するようにと招いてくれました。それからというもの、私はジャイメさんの家で行われる小さな親密な集まりで瞑想を始めました。今でも私は、この類(たぐい)のことが存在していると確信しています。霊界からメッセージを受けとり、霊界と交霊する人々と出会ったのですから。

 

​(質問者): ブラジルにはどのようにヴェーダーンタが伝わったのですか?

(たかさん): 1958年(たかさんがブラジルに渡る1年前)、我々の元にインドの師がアルゼンチンからリオデジャネイロを訪れるという知らせが入りました。ジャイメさんは早速、リオデジャネイロで名の通っている心霊術の方に連絡を取ったところ、この師というのはインドのラーマクリシュナ・ミッションのアルゼンチン、ブエノスアイレス支部長であるということを知りました。そして、ジャイメさんはリオデジャネイロを訪れ、そのインドの師スワーミー・ヴィジョヤーナンダと、その招待者であるカルヴァーリョ夫妻と会いました。 数日後、スワーミーが滞在されていた家は突然水不足に見舞われ、そこに滞在し続けることが困難になりました。ジャイメさんはリオデジャネイロに詳しかったので、グローリア海岸に部屋を手配し、ジャイメさんとスワーミーはそれからの一ヶ月以上の滞在期間中、ずっとそこに滞在しました。これら全ての事は、ジャイメさんがスワーミーと初めて会った途端に起こったことです。ジャイメさんから聞いたのですが、お会いして2日目にスワーミーは彼に『ジャイメ、ラーマクリシュナのお写真に、決して背を向けてはならない。祭壇を水で浄め、座(めいそう)し、シュリー・ラーマクリシュナにひざまずきなさい』とおっしゃったのだそうです。そして、スワーミー・ヴィジョヤーナンダからイニシエーションを受けたのです。ジャイメさんはブラジル人で初めてイニシエーションを受けた方です。ブエノスアイレスにお帰りになる前にスワーミーはジャイメさんの暮らしぶりについてお尋ねになり、次回はサンパウロの家に滞在させてもらえるか尋ねられ、 ジャイメさんは、「勿論いらしてください」と答えたのだそうです。するとスワーミーは、翌年にはジャイメさんの家を訪問するとおっしゃったそうです。1959年の7月、スワーミー・ヴィジョヤーナンダはお言葉通りサンパウロにいらっしゃいました。

 私には、この世界にはマスターや神々や天使、そして守護霊が存在していることの証がありました。守護霊から我々は常に護り導いていただいているのです。最近、日本のある預言者の本を読みました。そこには、『通常各々の人間には六人の親しい友があり、一人がこの世に転生する際、もう一人この世に転生し、他の五人の守護霊は天使のごとく、転生した二人を可能な限り援助するのだ』と書かれていました。私もあなたも六人グループの一人であり、護られているというのです。さらに、師、そしてそのまた師、更に宗教に導かれている人々は、イエス様や仏陀、ラーマクリシュナに護られているのです。私はこの説にとても興味をそそられました。単なる作り話とは思えません。実にこの世の中は、そのように回っているのです。 私の天使やあなたの天使は、常に私たちを護り導いてくださっているのです。これは、この地上に生きる者の真の有り様なのです。私はそれを実感しています。彼らの行為が私の人生にもたらされていることを私は実感しているのです。なんと言っても私の場合、もし何のお導きもなく自分一人の力で生きていたら、決して見出されえなかったものを見出したのですから。

 

​(質問者): グル(スワーミー・ヴィジョヤーナンダ)との思い出

には

どのようなものがありますか?

どのように出会ったのですか?

 

(たかさん): スワーミー・ヴィジョヤーナンダは、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子であられるスワーミー・ブラマーナンダに教えを受けておいででした。また、ホーリー・マザーにも直に祝福を受けておられました。ジャイメさんから、スワーミーがサンパウロにお見えになると聞いたことが、ヴィジョヤーナンダに関する最初の思い出です。その時、ジャイメさんは私に、家の祭壇を見せてくれました。祭壇にはシュリー・ラーマクリシュナ、聖母マリア様、イエス様、ヴィヴェーカーナンダ、そしてブラマーナンダ、シヴァーナンダ、トゥリヤーナンダ、プレマーナンダ、サーラダーナンダの写真が祀られていました。これら5人のスワーミーは皆、ヴィジョヤーナンダの師のような存在でしたので、ヴィジョヤーナンダは祭壇にお祀りされていたようです。ジャイメさんもそれにならって家の祭壇にお祀りしていました。タクールと聖母マリア様とイエス様は同じ高さに祀られており、その他の写真は後に並べて祀られていました。残念ながら、当時の私の語学力では何が起こっていたのかを全て理解することはできませんでした。初めてヴィジョヤーナンダにお会いした時、私がすでにジャイメさんの家に同居していたことはご存知でした。二度目にお会いしたのは1962年です。この時スワーミーは、アルゼンチンからブラジルに飛行機でみえました。ヴァリグ航空でカンピーナス市にあるヴィラコポス空港に到着なさり、我々は迎えに上がりました。飛行機の乗客は階段を降りて、滑走路を歩いて来ていたのを覚えています。スワーミーがロビーにお入りになり私を見た時、日本語で挨拶をしてくださって、リンドイア(ミネラルウォーターの商標)の水をお飲みになりたいとおっしゃいました。 それから私にカバンを手渡し、サンパウロまで大事に持っていくように指示されました。空港からサンパウロまでは車で向かいました。 ジャイメさんの家に到着するとスワーミー・ヴィジョヤーナンダはひじ掛け椅子にお座りになり、紅茶をお召し上がりになりました。その時、スワーミーは私のことをじっと見つめていらしたのですが、その視線があまりにも強力でしたので、私は全身麻痺したような感覚に襲われ、目をそらすことができませんでした。スワーミーはそのような私の状態に気づいておられましたが、何もおっしゃいませんでした。その後、オルガさんというアルゼンチンから一緒にみえた方が、スワーミーから大事にサンパウロに持ってくるように預かったカバンは何だったのかと私に聞きました。カバンの中にはホーリー・マザーの遺品やスワーミー・シヴァーナンダの御数珠、そしてイニシエーションのための品々が入っていたのです。ジャイメさんはスワーミーに霊性の修行について質問するようにと私に勧めてくれましたので、私は言われるままに、霊性の修行についてスワーミーに質問しました。するとスワーミーは私に、どのような修行をしたいのか、とお尋ねになったのです。当時の私は霊性の修行について全く何も理解していなかったので、どのような修行をしたいかなどという質問に答えられるはずがありませんでした。 『よろしい』とスワーミーはスペイン語でおっしゃりました。そして、二日後の火曜日には、私を呼んでこうおっしゃいました。『今日午後、花と果物を購入し、明日は朝早く起きてシャワーを浴びなさい。そして清潔な服を着て、朝6時きっかりに私の部屋に来なさい。』ジャイメさんにスワーミーの言葉を告げると『あなたはイニシエーションをしていただくのですね。』と言われました。

Vedanta_No3(写真).jpg

 スーワミー・ヴィジョヤーナンダの前に坐る「たかさん」

 

 イニシエーションを受けてから数年後の1966年、デルフィンさんという信者が私をリオデジャネイロで行われる、火の儀式(護摩=ホーマ)に招待してくれました。ヴィジョヤーナンダがいらっしゃるとのことでした。その儀式では、スワーミーの弟子のために、ブラマーチャリヤの(修行者としての戒を受ける)儀式が行われました。 儀式の最中スワーミーは私に、他の弟子と共にギーを火に捧げるように、とおっしゃいました。儀式の後、スワーミーは私を呼び、次のようにおっしゃいました。『私の元にはバケツに溢れんばかりの愛がある。これは、ホーリー・マザーから、そしてラーマクリシュナの直弟子たちから直々にいただいたものだ。今日、私はその愛を君に与えよう。何も放棄する必要はない。ただ大切に、これを持っていなさい。』

「たかさん」アシュラムにて①.jpeg

 ブラジルの信者たちと共に:前列白シャツ「たかさん」

 

​(質問者): スワーミー・ヴィジョヤーナンダの人生で何かシェア

していた

だけるお話はありますか?

 

(たかさん):はい、それではスワーミーが南米へ渡られた時のお話をいたしましょう。1932年、ドイツで東洋の宗教を学ぶグループの人々が、インドのラーマクリシュナ・ミッションの僧(スワーミー・ヴィジョヤーナンダ)がアルゼンチンに渡るということを知り、スワーミーをドイツに招待しました。スワーミーはインドから出航し、イタリアのナポリに着き、そこからドイツ人紳士に付き添われ、馬車でドイツへ向かいました。とても長い旅だったそうです。途中、紳士はスワーミーに、偉大なる科学者であり教授でもある方にお会いになりたいか尋ねたそうです。 その科学者はユダヤ人だったので、ナチスドイツを離れアメリカへ行くことになっていました。その人は、まだ学界の外ではほとんど知られていなかったアルベルト・アインシュタインです。アインシュタインを訪問すると、彼はまず、翌週のアメリカへの旅立ちに向けて全て荷造りしてしまってあることを詫びました。 しかし、たった一つスワーミーを歓迎する方法があると言って、ヴァイオリンで一曲弾いてくれたのだそうです。スワーミーはアインシュタインの家で、彼の奏でるヴァイオリンを聞いたのです。その後、スワーミーはヴェーダーンタについて話しました。万物は相対関係にあるということ、何一つ固定されてはいないということ、絶対的な状態は一切存在しないということをお話しされました。アインシュタインは目を輝かせてスワーミーの話に聞き入り、微動だにしなかったということです。 このお話を聞いて私は、アインシュタインにはすでに、このような考えがあったのではないかと思いました。そして、その考えを立証するかのように、インドの僧が話すのを聞いて驚いたのではないでしょうか。その後、スワーミーを乗せた馬車は、スイス、オーストリアを抜けドイツに入ったのですが、ドイツのある地方で、前世の記憶が完全に甦(よみがえ)ったのだそうです。これはスワーミーが私に直接お話ししてくださったことです。血行をよくするためにスワーミーが足湯をするお手伝いをしていた時、前世ではドイツに住んでおり、キリスト教系の僧団の僧であったのだとお話して下さいました。

 多くの人は信じないかも知れませんが、私は、生命が神に溶け込んでいく領域に導かれていました。我々には選択権など一切ありません。受け入れようが受け入れまいが、運命はすでに記されていて、その通りに人生は展開していくのです。幾らかの小さな事柄は変化し得ましょうが、本道はすでに記されているのです。私はそう確信しています。我々が苦しむのは、生まれる時、身体と心を再び授かるからです。そして、過去のカルマと情報も、です。人生とはそのようなものです。映画のようなもので、とても面白いではありませんか! 私には常に過去の正確な記憶が甦(よみがえ)り、この事実が確認されるのです。

 スワーミー・ヴィジョヤーナンダは、“ya está” とおっしゃったものでした。何を言わんとしておられるのか? この言葉が何を意味しているのか気になっていましたが、私のスペイン語とポルトガル語の知識は限られたものでしたので理解できず、スワーミーと何度もご一緒することによってのみ、言葉の意味を理解するに至りました。彼は、ある出来事が、人をその人本来の道に導いたということを言わんとしておられたのです。その人が自分の運命をたどっているのだと。

ブラジル・ヴェーダーンタ協会・機関誌「Vedanta 2016年4~6月号」より

 日本でも紹介された「たかさん」

 

 もう一つ、「たかさん」がブラジルに渡ってから数年後、日本のヴェーダーンタ・ソサイティの機関誌「会報ヴェーダンタ・1963年4月号」に「たかさん」からヴェーダーンタ・ソサイティの代表をされていた内垣日親氏に宛てられた手紙が掲載されています。

 今回、大阪府高槻市のヴェーダーンタ・ソサイティのご厚意により、提供を受け、公表させていただきます。

 

 以下、掲載いたします。

ヴェーダーンタ第50号「1963年4月10日」(日付け).jpg

途 中 省 略

ヴェーダーンタ第50号「1963年4月10日」(「たかさん」記事).jpg

 

ブラジルの同胞より

 ブラジルのラーマクリシュナ・ミッションでヴェーダーンタを学んでいる東胤隆君を紹介します。

 彼は東京でピアノの調律をされていましたが、一九五九年九月にブラジルに渡り、現在サンパウロに住んでおられます。

 同氏からのお便りを、以下に記載いたします。

 

  私は当地ブラジルのサンパウロに参りまして以来、約一年半、当地社会にかなりよく溶けこみつつ月日を過ごしてまいりました。すっかり言葉にも慣れたこの頃、たまたま一寸した事から(神の導きは全く奇蹟そのものの気がいたします)ゴメスというポルトガル人のピアノ教師を友人に得ました。私はこのゴメス氏を通じてヴェーダーンタ思想を知ったわけであります。

 幸いなことに、当地のヴェーダーンタの発展にとって非常に力強いことは、この南米大陸には一人の巨大なスワミが居られることであります。そのスワミは、ラーマクリシュナの最初の息子であったというスワミ・ブラフマナンダの直弟子のスワミ・ブイジョヤナンダであります。スワミはアルゼンチンのブエノス・アイレスにおられますが、ブラジルでもこのスワミを中心にリオデジャネイロに本部を置き、確実にしかも、力強く地盤が築かれ、数々の書物のポルトガル語訳、月刊誌、社会福祉等と、活動も大きく活発に前進している状態です。

 小生は本当に幸運なことに、昨年七月にこのスワミを知り、それ以来あまり立派とは申せませんでした小生の生活態度のすべてと云うか、物の考え方、人生そのものが根底から変わってしまったといっても過言ではなかろうと思います。この限りなく聡明でユーモアに富み、巨大な精神的力をもったスワミに接することで、全てが小生にとっては大変な勉強であり、ショックであったことは事実です。

 私は……この地上に生をうけた以上、人間としてより価値あるものとしてこの世の務めを全うし、さらに宇宙の真実に、神の位置にまでも到ることが出来んものとこのとてつもない大きな愛を実現するべく日々少しづつ励みつつあります。

 限りなき御発展と、永遠なる栄光をお祈り申上げます。

東 胤隆 

ヴェーダーンタ・ソサイティ発行「会報ヴェーダーンタ(1963年4月号)」より

※今回、1958年の創刊号から1963年までのヴェーダーンタ・ソサイティの機関誌「会報ヴェーダーンタ」のバックナンバーが綴じられたファイルをお借りしましたが、そこには中村元氏、木村日記氏、宮本正清氏、奈良毅氏など、そうそうたる人物が寄稿されており、記事の内容からも黎明期の息吹と熱い情熱を感じることが出来ましたことを報告させていただきます。

 信者の皆さんが語る「たかさん」の思い出 

​ 信者の皆さんが聞いた「たかさん」の足跡

 

 たかさんのお父様は平戸(長崎県)を治めていた松浦氏の家系の方です。お母様は美濃国郡上(岐阜の郡上八幡)と下総国東庄(千葉県東庄町)を治めていた東(とう)氏の家系の方です。お母様には男の兄弟がおらず末娘ながら東家を継ぎ、たかさんのお父様が東家の婿養子になったそうです。お母様の数人のお姉さまは皆、海外へ雄飛されたようです。ブラジルの機関誌「ヴェーダーンタ」のインタビューに登場されるリオデジャネイロの伯母様は、たかさんのお母様のお姉さまだと思いますとのことを、たかさんの弟さんの娘さんから聞いています。

 

 たかさんは東家の長男ですが、『長男のくせに親の面倒も見ないで、みんな弟にやってもらったから、遺産は一切拒否しました。』というようなことをおっしゃっていました。上にアメリカに嫁いだお姉さんがいるそうです。次男の方は日本に住んでおられます。三男は羽田空港でコックをしていましたが、彼の料理があまりにも美味しかったので、スイスの大きなホテルに引き抜かれて、それ以来スイスにいらっしゃいます。初めはホテルで働いておられたのですが、後に独立してご自分のレストランを持ったそうです。スイスで知り合った日本女性と結婚されて、娘さんが一人いらっしゃいます。今は仕事は引退されたようです。一番下は妹さんでスイスの国立オーケストラのヴァイオリン奏者でしたが、もう引退されて日本に住んでおられるはずです。この方のことも、たかさんは嬉しそうにお話ししていました。『ヨーロッパは面白くないから、退職後は日本で暮らすようだ。国立のオーケストラの楽員だから退職の条件もいいし、大丈夫ですよ』というようなことをおっしゃっていたのを記憶しています。

 

 たかさんは上皇様、平成天皇のご学友でお友達だったそうです。学習院時代の写真が残っています。

「たかさん」学習院入学.jpg

 

 たかさんは前世からヴィジョヤーナンダジとつながっていて、それでヴィジョヤーナンダジがたかさんを呼び寄せたのだと言っていました。それは事実なんだと言っていました。ヴィジョヤーナンダジがはっきり、そういうものをたかさんに見せてくれたそうです。

 

 ブラジルは1985年まで軍事政権下にあったので、ジャイメさんのおうちでの集まりはカーテンを閉めて内輪でわからないようにやっていたのだと、たかさんに聞きました。警察が取締のために来たこともあるとも聞いた覚えがあります。軍事政権の元で、法律で特別秘密保護法みたいなものがブラジルにはあったようです。

 

 ブラジルは霊と交霊するとか、ヴィジョンで見ることとかがわりと身近で、神秘主義も根付いていました。そういうこともあってか、ブラジルにはベルルからお坊さんが派遣される前に、ラーマクリシュナ・ミッションというものができていたのです。1950〜60年頃のことです。たかさんがブラジルへ渡られる前後のことでね。

 ミナスジェライスという州に住んでおられたジャーナリストにタクールがお姿を現され、その後、ブラマーナンダジがお姿を現され、段階ごとに貧しい子供たちに奉仕する組織を作るように指示され、ラーマクリシュナ・ミッションが創立されるにいたったのです。ブラマーナンダジは、ラーマクリシュナ・ミッションのために購入された土地のどこを掘れば水が出てくるという指示もされました。

 

 私がたかさんにお会いしたのは2002年頃のことですが、たかさんはスワミジーの『インスパイヤード•トーク』を読むのを楽しみにしていました。毎月、逗子のヴェーダーンタ協会から送られてくる『不滅の言葉』に連載されていたものです。私がブラジルにいた頃の『不滅の言葉』はたかさんに回していました。

 

 たかさんはブラジルに渡ってから日本に一回は行っていますが、逗子の協会には行ったことがないと言っていました。それでも中井ハルさんとはお手紙でやりとりしたことがあるようで、逗子のセンターから出版された本は中井さんがほとんど送っていたようです。メダサーナンダジも確か、何冊か送ったとおっしゃっていたのを覚えています。

 

◇     ◇     ◇

​「 たかさん」の思い出

 

 協会では会計を任されていました。

「会計をしているので、スワミは自分をアシュラムから出してくれない。誰にでも任せられる役ではないからね。」と言っていたのを覚えています。

「アシュラムに住むのは大変だ」とも言っていました。わたしはアシュラムに住めるなんて羨ましいといつも思っていましたが……。

「アシュラムになる前の方が自由でよかった。何でも食べられたし、飲めたし、あの頃は楽しかった」などともおっしゃっていました。

でもこういうことをさらっと口にして、全く毒っ気がなくって……。

面白いこというなあと思って私がケラケラ笑うと、一緒にケラケラ笑ってくれて……。

 

 たかさんは、会計の他にはプージャの時などは音響の責任者でした。多分、BGMも含めた音楽の選曲もたかさんがやられていたのだと思います。とてもよかったです。インドものだけではなくて、確かキリスト教系のものもそれとなくミックスされていたこともあるように記憶しています。

 

 たかさんは素晴らしいピアニストとも親しくしていたように聞いています。ただ私には聴き慣れない名前ばかりで、どのピアニストの名前も覚えていません。一緒に食事に招待されたり、ニコニコ語ってくださったのを覚えています。辻井伸行さんのことはとても素晴らしいと、非常に称賛しておられました。

 

 私は週に2回くらい協会に通っていて泊めてもらうこともあり、たかさんと会えるのが楽しみでした。

たかさんは、私の母が送ってくれる硬く硬く焼いてある草加センベイも大好きでした。そう、あと納豆も。近所の日本人街で買って、時々お土産に持っていきました。とても喜んでくださって嬉しかったです。

 

 協会に泊まる晩は夕飯の後片付けをしながらちっちゃなキッチンで、ああでもないこうでもないとヴェーダーンタ・ジョークみたいな、そういうジョークで大笑いしたのがとても楽しかったし、とてもありがたかったです。ブラジルの信者さんはとても陽気で明るくて。たかさんは一見、物静かなのですが、お話するのがものすごく上手で、みんなを笑わせ、引きつけ、しかも内容のある味のあるコメントやお話をしてくださいました。

 

 片付けが終わると、たかさんがエスプレッソをみんなに作ってくれました。

『じゃっ、今夜もいっぱいやりますか』

みたいな感じで……。確か、イタリア製の小さな、あれはもしかしたら一人前用だったのかも知れません。それくらいちっちゃなエスプレッソをつくるポットを直接火にかけて、たかさんと、わたしと、その頃お寺に住んでいたエジプト系のショフェと、そしてヨランダ*と4人でちっちゃなエスプレッソのポットに入った濃いコーヒーをみんなでちょっとずつ分けて飲むのです。『コーヒーを飲まないと眠れないからね、』って言いながら。

*(ヨランダ)――ブラジルのセアラという州の出身の人で、インディオとアフリカの混血のような顔つきの女性です。ヴィジョヤーナンダジからイニシエーションを受けた方です。今は94歳くらいだと思います(2020年時点)。彼女も、それは、それは霊性の高い、それでいてとても気さくな方で、冗談好きで、素晴らしい方です。彼女は3歳の頃に二人暮らしだったお母様をなくされて、その後あずけられた親戚のおうちでとても悲しい思いをされて、その後、他の親戚のおうちでカトリックの尼さんと親しく時間を過ごす機会に恵まれ、結婚はされましたが子供はなく、旦那様が亡くなってから協会に住んでおられる方です。『そういう生い立ちのおかげで、私は協会に住んで、タクールのお食事をつくらせていただけている』とおっしゃるような方です。

 

 朝、たかさんは時々、片手で卵を割ってオムレツだったか卵焼きだったかを作られるのですが、フライ返しも使わないでヒュッと卵をひっくり返したりして……。スイスの弟さんの話は、そんな時にしてくださった気がします。

 

 わたしが子供たちをアシュラムに連れて行って、協会の図書室で遊ばせて、夕方のアーラティに子供たちを連れて行こうとすると、

『子供たちは好きにさせておいたほうがいい。』

というようなことを何度かたかさんに言われたのを覚えています。

「無理にアーラティに連れて行かないで、遊びたいなら遊ばせておいた方がいい」という意味合いで……。無理強いは良くないと、必要ないということだったのだと思います。

 

 たかさんの話し方は曖昧なところが全くなく、ものすごく考えがはっきりしていて、そのお話しぶりはヴィジョヤーナンダに似ているのかもしれません。たかさんのお話は彼の実体験から来ているものばかりで本当にいつもとても率直で面白くて、と言うか率直すぎて面白くて……。少年のようですが気品があって、とても素敵な方で、みんなの人気者でした。

 ブラジルにおける「たかさん」の グル 、 

 スワーミー・ヴィジョヤーナンダ 

 

 スワミ・ヴィジョヤーナンダのことは日本ではあまり知られていません。

 ラーマクリシュナ研究会ではブラジルのLuiz Antonio Souto Monteiro氏のご厚意で、氏が公開したA Brief History of Vedanta in Brazilというサイトの中でブラジルにヴェーダーンタの教えがどのように伝えられたかを伝える記事を引用してスワミ・ヴィジョヤーナンダのことを知っていただきたいと思います。

ヴィジョヤーナンダ.jpeg

​スワミ・ヴィジョヤーナンダ(1898~1973)

 

 アルゼンチンとブラジルでは、1911年(明治44年)にはすでに「聖ラーマクリシュナの福音」とスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」が伝えられ、関心が高まっていました。その20年後の1932年(昭和7年)にアルゼンチンのグループがベルール僧院にヒンドゥー教とヴェーダーンタの教えを指導してくれるスワミを派遣してくれるよう要請しました。その役目を託され任命されたのがスワミ・ヴィジョヤーナンダ(パスパティ・マハラージ)でした。

この任命については、とても面白いエピソードがあります。

 

 スワミ・ヴィジョヤーナンダは当初、アルゼンチンへの派遣に同意しませんでした。M(マヘンドラ・グプタ)は彼を呼び寄せ、若いスワミを叱責しました。

 M「あなたがそんなに臆病者だとは思っていなかった。」

 スワミ・ヴィジョヤーナンダ「臆病とかの問題ではありません。マハープルシャ・マハラージ(スワミ・シヴァーナンダ)やその他の直弟子たちがいるところから遠く離れるなんて、わたしには想像することさえ出来ません。」

 M「もしそれがほんとなら‥‥それは臆病よりもさらに悪いことだ。そりゃ利己主義じゃないか。スワミジーがアンデス山脈の頂上に聖ラーマクリシュナの旗を掲げるというビジョンを持っていたことを知らなかったのか? そしてあなたは、その彼の夢を実現するために選ばれた人なんですよ!」

 その言葉を聞いて、スワミ・ヴィジョヤーナンダは感無量になって、彼の頬からは涙が流れ落ちました。そして彼は、ブエノスアイレス(アルゼンチン)への派遣を快諾したのです。

 

 スワミ・ヴィジョヤーナンダがアルゼンチンに渡ってからブラジルの地を踏むまでには、さらに数十年の月日が必要でした。ヴェーダーンタを学んでいるブラジルの学徒がスワミ・ヴィジョヤーナンダにリオデジャネイロに来てくれるように手紙を書き、そしてスワミは1959年(昭和34年)の10月にブラジルにやって来たのです。

 

 多くの人の敬愛を受けているスワミ・ブラマーナンダ・マハラージの弟子であるスワミ・ヴィジョヤーナンダは、ホーリーマザーの祝福(ダルシャン)も受けており、また他の聖ラーマクリシュナの直弟子たちとの交流にも恵まれていました。それほど祝福された彼はスペイン語で講義し、彼の燃えるような言葉はまだ知られていないヴェーダーンタの理想をブラジルのみんなに明らかにしてくれました。本物だけが持つ強力な霊性が彼の全身からはっきりと感じられました。彼はリオとサンパウロで10週間の講話を行いました。

 それ以来、講話は毎年行われるようになりました。それはヴェーダーンタについての忘れられない刺激的な学びの日々でした!

 

 1960年代の初頭、霊性の道(ブラフマチャリヤ)を歩もうとする6人の熱心な求道者が最初のアシュラムとなる施設を用意しました。ダウンタウンの近くのサンタテレサの丘——そこはリオのモンマルトルの丘とも呼べるような——そんな場所に、とても居心地の良い家が借りられたのです。

最初のアシュラム(セピア).jpg

​最初のアシュラム

 そこで彼らはすぐに仕事にとりかかり、ヴェーダーンタの教えを伝え始めました。「永遠の伴侶」や「聖ラーマクリシュナの教え」など、いくつかの重要な本がポルトガル語に翻訳されました。昔ながらの謄写で印刷された月刊誌は、アシュラムの活動やニュースを信者の方々に知らせるのに役立ちました。

 

 またスワミ・ヴィジョヤーナンダは、聖ラーマクリシュナ、ホーリーマザー、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの短い伝記などの優れた本を書きました。また、男女を問わず、出家した弟子たちや在家の弟子たちの本も多く書きました。

 そしてスワミ・ヴィジョヤーナンダジは、ブラジル、アルゼンチンにしっかりとヴェーダーンタの基礎をお築きになって、1973年9月1日にブエノスアイレス近郊のラーマクリシュナ・アシュラムで、75歳の生涯を閉じたのです。