極めて低かったヒンドゥー社会における女性の地位
1885年10月30日(金)のコタムリトに医者のサルカル先生の言葉として、次のような記述がある。
お孫さんが一人生まれましてね、(サルカル)先生はお嫁さんを大そうほめておられました。『一日中、家の中に嫁がいることに気付かないほどだ。それほど、うちの嫁は静かで恥ずかしがり屋で……』と言って」
この言葉からは、当時の女性の地位を推察することが出来る。
極めて低かった女性の地位
当時のヒンドゥー社会における女性の地位はとても低く、女性に貞節、従順、純潔を求めた。さらに妻には夫に献身的に尽くして家庭の繁栄に努め、家系存続のために嫡子を産むことが求められた。教育についても女性軽視の傾向が強く、識字率については現代においても、女性の方が男性よりも22%も低い数字を示しているので、19世紀のベンガル地方においてはさらに低かったことは容易に想像できる。
読み書きの学習を妨害されたホーリー・マザー
ホーリー・マザー(サーラダー・デーヴィー)についても例外ではなく、教育を受ける機会が与えられなかった。以下、ホーリー・マザーの伝記から探ってみよう。(ホーリー・マザーの生涯/日本ヴェーダーンタ協会p35を参照)
タクールとの婚礼後、10歳を少し超えたホーリー・マザーがカマールプクル村に滞在してタクールの家族と生活をしていた時期があるが、この頃、タクールの姪のラクシュミーとベンガル語を習って本を読み始めていた。
それを見たフリダイは、
「女に教育なんて必要ない。読み方なんぞ憶えたら、そのうちに物語や芝居なんか読むようになる。けしからんことだ」
と言って本を取り上げた。
ホーリー・マザーはこの時は読み書きの学習を一旦あきらめて、数年後、ドッキネーショルで改めて学び直すのである。
19世紀における女性差別の例
(1)高額な持参財
ヒンドゥー社会では、女性を嫁がせる際に高額の持参財(ダウリー)が必要となるので、ダウリーの支払いを嫌って、女児の流産、嬰児遺棄の慣習が行われていた。現在でも女児の堕胎率はきわめて高い。
(2)幼児婚
古くからヒンドゥー教徒は『マヌ法典』に明記されているサムスカーラ(浄化儀礼)に従った生活を守っていた。婚姻も例外ではなく理想の結婚年齢は、男性30歳、女性12歳、または男性24歳、女性8歳とされる。女性は初潮以前が原則とされていたので幼児婚が当然であった。こうした理由から初潮前に娘を嫁がせるのは父親の宗教的義務とされていた。
(3)一夫多妻婚
19世紀のベンガル地方ではバラモンなどの高カーストの間で多妻婚が行われ、極端な例では、一人の年老いたバラモンが100人以上の女性との婚姻を結んだ事例もあった。年齢差のある男性との死別によって多数の幼い寡婦の発生も見受けられた。
(4)寡婦の再婚禁止
夫への絶対的服従が求められるヒンドゥー社会では、女性は夫の死後まで貞節であることが求められ、再婚は認められず、質素な身なりで日陰者のように自制的で惨めな生活を強いられた。女性の財産所有や夫の遺産相続は認められていなかったために、生活の手段として売春を選択するケースや次に述べるサティーを選ぶことも多かった。
(5)サティー(寡婦殉死)
夫への献身的な従順を奨励するヒンドゥー社会の慣習の中で異常とも言えるものがサティー(寡婦殉死)である。サティーとは夫の火葬のときに、寡婦が夫の亡骸とともに生きながら焼かれ葬られる慣習のことである。サティーの語は真理を表すサットの女性形で、〝貞淑な妻〟の意として用いられる。この慣習は19世紀初頭にはベンガル地域を中心に年間600件ほどの記録が残されている。これは寡婦の献身的な行為からだけでなく、これから待っている惨めな生活から逃れる為の選択でもあったようだが、本人の自発的行為ではなく親族からの強要もあったようである。
サティー(寡婦殉死)の禁止
インドを統治していたイギリスはサティー禁止に向けて動き出すが、その大きな力となったのが「女性擁護」の姿勢を貫き、サティー(寡婦殉死)の禁止、幼児婚の禁止、寡婦再婚の奨励、一夫多妻制の廃止などを指導した〝近代インドの父〟と呼ばれ、後にブラフマ協会を創設したラームモハン・ロイ(1772~1833)の活動であった。特にサティーに関しては禁止運動を徹底して行っている。ロイの兄が死んで、その妻がサティーで殉死したのを目撃したことが大きなショックとなった。禁止を説くばかりでなくサティーが行われている場所に行って説得を試みたこともあったそうだ。そして1829年、遂にサティーは法的に禁止され、極刑を含む処罰の対象となった。
しかし尚、究極的な自己犠牲の理想としてヒンドゥー社会の民族意識として生き続けたのであった。
「コタムリト」の中にも登場するベンガル文学の作家、バンキム・チャンドラ・チョットパッダエ(1838~94)は、次のような文を残している。
「わたしには、(夫の遺体を燃やす)薪が燃え、サティー(寡婦/かふ)が燃えさかる炎の真ん中に座り、優しく彼女の夫の足を胸に抱いている姿を眼前に見ることができる。我々の女性たちが、しばらく前までこのような死を迎えることが出来たことを考える度に、わたしは我々の中に、偉大さの種が眠っているという希望に包まれる。……ああ、ベンガルの女性たちよ、あなたたちは、この国の真なる宝である」
(『イギリス支配とインド社会』粟屋利江著/山川出版社刊より)
後には、彼が書いた著作や小説で紹介した「バンデ・マタラム」という歌が全インドで国民歌として歌われ、民衆の士気を鼓舞し、インド独立運動の気運を大いに盛り上げたバンキムであったが、他方ではこのような前時代的な考えを持ち続け、こんな言葉を残していたとは以外なことである。
参考文献:
世界史リブレット5・ヒンドゥー教とインド社会 山下博司/山川出版社刊
世界史リブレット38・イギリス支配とインド社会 粟屋利江/山川出版社刊
近代インドの宗教運動 斎藤昭俊/吉川弘文館刊
南インドを知る事典(新訂増補)/平凡社刊