ラーマクリシュナ僧院に来た日本人がいる!
岡倉天心よりも8年も前に
「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯における出来事 第3巻」より
シカゴの宗教会議が終わった翌年(1894年)の夏、ヘーワーヴィターラナ・ダルマパーラがカルカッタに来た。
そして、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがアメリカでどれほどの偉業を成し遂げたか、スワミジーの不思議な魅力がどのように人々のハートを魅了したかなど、スワミジーの偉大さについてカルカッタで話してくれた。アメリカでスワミジーに直接会ったダルマパーラの口からそのような感動する話を聴いて、新聞に書かれている事などは、ほんの一部に過ぎなかったのだと皆が感じた。
ダルマパーラによるスワミジーに関しての講演がミナルバ劇場であり、多くの人々が聴きにやって来た。スワミジーの聡明な頭脳、愛にあふれたハート、磁石の磁力のような引力がみんなを、まるで針のように引きつけていた事などを話してくれた。
この講演の後、シュレス・チャンドラ・ミトラ氏(ラーマクリシュナの在家の弟子スレンドラ)がシムラ通りの自宅にダルマパーラを食事に招待した。そこでも彼から、もっと詳しくスワミジーの話を聴くことができた。
それから何日か後に、直弟子達はアラムバザール僧院に何日か滞在するように、彼を招待した。
彼と一緒に “こうかみ” という日本人も一緒にやってきた。
夏だったので、二人は大きな部屋の前にあったベランダで一晩を過ごされた。
そしてその夜も、僧院に住んでいるみんなと “こうかみ” に、シカゴでのスワミジーの話をしてくださった。――スワミジーのポスターが道にたくさん貼ってあったとか、シカゴ世界宗教会議が開催された9月11日が吉兆な日として記憶された、など、など……。
アラムバザールのラーマクリシュナ僧院
内 扉
表 紙
記事掲載ページ
「シュリーマット・ヴィヴェーカーナンダ・スワミジール・ジボネール・ゴトナボリ 第3巻」
(「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯における出来事 第3巻」)
著者:シュリー・マヘンドラナート・ダッタ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの次弟)
ベンガル年1333年アシャル月発行(西暦1926年6~7月発行)
「こうかみ」とは誰か? それは……
ベンガル語で「こうかみ」と記録された日本人はいったい誰なのか?
この時期にインドに留学していた日本人の学僧は3人しかいない。
・徳澤智恵蔵(とくざわ・ちえぞう)
・川上貞信(かわかみ・ていしん)
・釈守愚(しゃく・しゅぐ)
の3人である。
「かわかみ」の発音が「こうかみ」とベンガル人には聞こえたのであろうと推察される。また、川上貞信がダルマパーラと親交を深めていたことも明らかなので、「こうかみ」は川上貞信に間違いないであろう。
川上貞信(かわかみ・ていしん)
(1864~1922)
川上貞信(かわかみ・ていしん)は西暦1864年(元治元年、明治維新の4年前)、熊本県天草市佐伊津町(さいつまち)の浄土真宗本願寺派の西法寺(さいほうじ)に生まれた。父は慈雲といい西本願寺から司教を贈位された田舎学者であった。母は西法寺の北西16㎞に位置する苓北町富岡(れいほくまち・とみおか)の東本願寺に属する鎮道寺(ちんどうじ)から嫁いできている。この鎮道寺の本堂の柱には勝海舟の落書きが残っていることで有名である。
川上は龍谷大学の前身となる西本願寺の “大教校” で学んでいる。東京大学より一年早く開校されたこの学舎は今でも現存し、京都では随一の洋館だった。この学校では近代的なカリキュラムが導入され、外国人教師が英語なども教えていた。川上はここで神童ぶりを発揮したらしい。その後、西本願寺のプリンスであった大谷光瑞(おおたにこうずい)の養育係を命じられたが、後にインド、中央アジアで仏跡の発掘調査を行った奔放(ほんぽう)で高邁(こうまい)な理想に生きた大谷とは馬が合わず、養育係はごく短期間で終わっている。
1889年(明治22年)2月、川上貞信25歳のとき、西本願寺が中心となって二人の人物をセイロン(現スリランカ)から招聘(しょうへい)した。
一人は神智学協会のオルコット大佐(ヘンリー・スティール・オルコット)で、もう一人は4年後、シカゴで開かれる世界宗教会議に、上座部(テーラワーダ)仏教のただ一人の代表者として出席するヘーワーヴィターラナ(アナガーリカ)・ダルマパーラである。この時、ダルマパーラが日本の仏教徒のために助言として書いた小冊子『愛理者之殷鑑(あいりしゃのいんかん)/(現代訳:真理を愛する者からの戒め)』を翻訳したのが川上である。この翻訳は出版され今でも読むことが出来る。ダルマパーラは日本に向かう船上でリュウマチ神経痛を患い多くの演説をすることは出来なかったが、オルコット大佐は数千人の聴衆を集めた知恩院での演説会を皮切りに、北は東北から南は九州まで日本各地で演説会を開き、東京では明治政府の首脳とも会っている。
あいりしゃのいんかん
愛理者之殷鑑
ダルマパーラ 述 / 川上貞信 訳
菊秀堂書店発行
明治22年4月15日出版
同年5月末、川上は日本に大旋風を巻き起こしたオルコット大佐がセイロンに帰国する際、セイロン仏教界からの勧誘に応じて、小泉了諦(こいずみ・りょうたい)、朝倉了昌(あさくら・りょうしょう)と共に、上座部仏教、サンスクリット語、パーリ語を学ぶためにセイロンに留学する。
前列左より
川上貞信
オルコット大佐
ワトワンタダーヴ
ダルマパーラ
後列左より
ワトワンタダーヴの息子
東温譲 (ひがし・おんじょう)
徳沢智恵蔵 (とくざわ・ちえぞう)
善連法彦 (よしつら・ほうげん)
1889年頃、コロンボにて撮影
西法寺所蔵
3年後の1892年(明治25年)に川上はインドのカルカッタ大学に移る。1893年9月、先に留学しチベット潜入を準備していた東温譲(ひがし・おんじょう)がボンベイで熱病で亡くなった時には葬儀の導師を務め、遺骨の一部をブッダガヤーに埋葬している。
セイロン、インドに留学した学僧の中には、チベット潜入を目指した者が多くいた。その理由は、明治政府による神仏分離から端を発した廃仏毀釈、形骸化し救済力を失った仏教への民衆の不満、キリスト教の解禁、天理教や黒住教といった新宗教の台頭、また明治時代に入って欧州から仏教の学術的な研究が伝わってくるにつれて “大乗非仏説” の問題が表面化してきたことなどである。そんな中、行き詰まった日本仏教の活路を、チベットに伝えられた仏教(ラマ教)に見出そうとしたのである。インドでは仏教は滅んでいるが、チベットには残っている。漢籍からではなくチベットに残っている経典の中に、ブッダ釈尊の言葉をひと言でもふた言でも探していきたいと願ったのである。川上貞信もその思いが強かった。1893年(明治26年)の初めからチベット語の学習、潜入ルートの調査の為に、著名なチベット学者サラット・チャンドラ・ダースの世話を受け、ラマ僧がいるインド北部のダージリンに滞在して準備を整えていた。おそらくはダルマパーラが創設した大菩提会(マハー・ボーディ・ソサエティ)を通じてダースヘの紹介がなされたのであろう。川上がアラムバザールのラーマクリシュナ僧院に行ったのはその翌年である。ダースは川上をダージリンの手前のグームにあるゲルク派の僧院イーガチョエリンのラマ、シェーラプギャムツォに紹介したと思われる。これは後に続く河口慧海(かわぐち・えかい)の場合とまったく同じである。『チベット旅行記』が名高いために、どうしても河口にだけ目が行きがちであるが、少なくともここまでは、川上も河口も同じようなコースをたどっている。順序から考えればむしろ、河口こそ「第2の川上」だったのである。
インドからチベットに入るには、ヒマラヤ山脈を越えなければならない。その上にチベットは厳しい鎖国主義をとっており、捕らえられると重い首かせをはめられ、四つん這いにされて、国境まで追い立てられた。しかも足の裏にはうるしを塗りつけられた。
川上はダージリンで潜入のチャンスを待っていたが、ある時、川上は中国人の商人に化けて、ヒマラヤのかなり奥地まで行ったところで、正体がばれたという。「今夜襲撃する」と知らせてくれる者があって、命からがら逃げ帰ったらしい。なぜ見つかったかというと、中国人が顔を洗う時に手に水をすくって顔を動かすのに対して、川上が手のほうを動かして顔を洗うのを見られたためだったそうである。
結局、川上がチベットに潜入することは出来ず、1897年(明治30年)10月に一旦帰国する。
1898年(明治31年)、川上は仏教大学の教授に就任するが、チベット潜入の夢を捨てきれず、翌1899年(明治32年)にはその職を辞し、その年の12月、西本願寺の海外留学生となって、中国からのチベット潜入を試みようとして中国に渡る。ところが運悪く1900年(明治33年)6月、祖国を外国の侵略から取り戻そうとする義和団による北清事変に巻き込まれる。川上も北京の公使館区域に籠城し、日本公使館武官の柴五郎中佐の総指揮のもと日本義勇隊に加わり、2ヶ月後勝利し同年9月、勲六等瑞宝章を与えられ帰国する。ここに川上のチベット潜入の夢は絶たれる。ちなみに、河口慧海(かわぐち・えかい)によって日本人として初めてチベットの聖都ラサ潜入に成功するのは、この翌年1901年(明治34年)である。
その後、巣鴨にあった真宗大学(現大谷大学)で川上は嘱託の身分でチベット語の初歩を教えた。期間も1、2年で聴講者も少なかったが、日本で最初にチベット語を教えたことになる。また語学が堪能で六カ国語ほどをこなした。『萬朝報(よろずちょうほう)』の黒岩涙香(るいこう)とも親交があって、翻訳の下訳を引き受けていた。
その後、川上貞信の姿はアメリカにあった。1907年(明治40年)、仏教の布教のために一人でアメリカに渡ったのだ。戸籍によると、川上は一度結婚している。相手はユキノという女性だ。洗い髪の美人の写真が残っていた。渡米するとき、この写真の女性を同伴するつもりであったが、トラコーマにかかっていたためビザが取れず、残して行った。
アメリカでの川上の足取りを知るものとして、1915年(大正4年)9月10日付の『中外日報』に「東温譲氏と共にインドでかなり勉強しながら西本願寺の御役人と相容れず、今は米国に居られる」という記事が載っている。カルフォルニア州で日系移民と一緒に開拓していた時期もあったらしい。あるとき、幽霊屋敷に泊まることを頼まれ、翌朝、起こしにきた人に「君は幽霊かね、人間かね」と尋ねたという。ロサンゼルスに寺院の寄進を受けている。
渡米から8年後、川上は帰国する。郷里に帰ってきた川上は布教師として、天草の島々から鹿児島県内まで出かけた。まさに “一文不知(文字ひとつ知らず無知無学)” の人々を集めて説教をするのである。お金を数えるのが嫌いで、人力車に乗ると車代として羽織を脱いで渡した。知り合いのたばこ屋では、「これをもらうばい」とお金を払わず持って行くが、ときどき封を切っていないお布施を「はい」と言って置いてくる。信徒たちが西法寺の裏に小さな隠居所を建ててやった。
1922年(大正11年)3月29日、鹿児島県の布教先で没した。享年59歳。残った荷物を整理していたら、トランクの底にアメリカの大学のドクター・オブ・フィロソフィーの証書があった。川上はアメリカで哲学の博士号を取得していたのだ。
川上貞信は文明開化の明治時代に、新しい日本仏教の礎を切り開こうと奮闘した、誇り高き開拓者であったと言えよう。
著者の許可を得て、以下の文献を参考に作成
「異風者伝(いひゅうもんでん)近代熊本の人物群像/井上智重著(熊本日日新聞社刊)」
「明治の仏教僧によるアジア留学及び探検の研究/奥山直司(高野山大学文学部助教授)」
スワミ・ヴィヴェーカーナンダとダルマパーラ
ダルマパーラはシカゴ宗教会議の席でスワミ・ヴィヴェーカーナンダに会ってから、一目でその魅力に圧倒されてしまい、ヴィヴェーカーナンダの言動には最大限の関心を寄せていた。
またヴィヴェーカーナンダもダルマパーラのことがとても好きで交流を深めたようである。
ヴィヴェーカーナンダから見たダルマパーラは、心がとても純粋で霊性への探求心も強いが、仏教についての理解は、残念ながらあの時点ではあまり深くないと見ていたようである。ヴィヴェーカーナンダがダルマパーラに対してブッダの教えの核心を話して聞かせたこともあったようだ。
そしてダルマパーラにはとても親身になって助言を惜しまなかったそうである。
シカゴ世界宗教会議の壇上にて(1893年)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの左がダルマパーラ
シカゴ世界宗教会議に参加のインド・セイロン代表(1893年)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの右がダルマパーラ
ダルマパーラはダルマパーラで、スワミ・ヴィヴェーカーナンダとの交流は深く胸に刻まれたようで、シカゴ宗教会議の翌年、カルカッタで講演会を催した際、
自分の信奉する仏教の話はまったくしないで、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがどんなにアメリカ人のハートを魅了したかなど、シカゴでのスワミジーの活躍のことばかりを、カルカッタの民衆に熱い口調で話して聞かせたようである。
この日のことをダルマパーラは自分の日記に簡潔に、次のように書いている。
「私は彼らに、彼の英雄的な働きや、彼がアメリカで作りつつある一大センセーションについて語った」