撮影された聖ラーマクリシュナの3枚の写真について
聖ラーマクリシュナを撮影した写真が3枚あります。
写真1:
ケーシャブ・センの別荘でブラフマ協会の集会でキールタンの際に恍惚状態になった聖ラーマクリシュナの写真
写真2:
スレンドラ・ミトラが聖ラーマクリシュナをラーダーバザールの写真館にお連れして撮影したスタジオ・ポートレート
写真3:
バヴァナート・チョットパッダエが連れてきたカメラマンがドッキネーショル寺院のラーダーカーンタ堂の西で撮られた “「礼拝」のポーズ” と言われる写真
これら3枚の写真について、撮られた日時や場所、写真が撮られたときの状況などをお知らせします。
写真1「恍惚状態の聖ラーマクリシュナ」

(撮影日時)1879年9月21日(日)
(撮影場所):ケーシャブ・チャンドラ・セン邸。
カルカッタ市内ラージャバザール地区、マヘンドラ・グプタの家から東へ約800m
(撮影者):ベンガル人カメラマン
この写真で、聖ラーマクリシュナは立ったままサマーディの状態にあります。甥のフリダイが体を支えています。著名な歌い手でありブラフマ協会の教師でもあるトライローキャ・サニエルが聖ラーマクリシュナのすぐ右の床の上に座っています。他の人物は特定されていません。
この写真が撮られたのはブラフマ協会の指導者ケーシャブ・チャンドラ・センのカルカッタのラージャバザール地区にあるカマル・クティ(睡蓮荘/リリー・コテージ)と呼ばれている屋敷です。
1879年9月21日、聖ラーマクリシュナはブラフマ協会の指導者ケーシャブ・チャンドラ・センに招かれ、ブラフマ協会の祭典に出席しました。そこでキールタン(宗教音楽)が催されました。その音楽は聖ラーマクリシュナを恍惚状態に導きました。彼は「オーム」という聖句を唱え、右手を挙げて立ち上がりました。外的な感覚が失われ、彼はサマーディに入りました。外的意識を失ったラーマクリシュナの体が地面に倒れるのを恐れた甥で従者でもあったフリダイが聖ラーマクリシュナの体を支えました。この時に、ケーシャブは写真を撮らせました。
この時、聖ラーマクリシュナは特徴のある指の形をしています。聖ラーマクリシュナの手の位置と指の形には何か意味があるのでしょうか? 何か象徴的なジェスチャーをしているのでしょうか? 聖ラーマクリシュナの直弟子であるスワミ・プレーマーナンダは、その意味は「すべてはそこにあるが(上、右手)、この世にあるのではない(左手)」と推測しました。
写真2「スタジオ・ポートレート」

撮影日時:1881年12月10日(土)
撮影場所:カルカッタ、ラーダーバザール地区にあるベンガル写真館
撮影者:ベンガル人カメラマン
1881年12月10日土曜日の午後3時頃、聖ラーマクリシュナはカルカッタのマノモハン・ミトラ邸に到着しました。そこでしばらく休息し軽食をとりました。そのあとスレンドラ・ナート・ミトラは師を馬車に乗せ、カルカッタのラダバザール地区にある写真スタジオへ案内しました。そこで師は写真が撮影される仕組み(からくり)についての説明を受け、硝酸銀を塗布したガラス面にどのように像が写るのかを拝見なされました。そして師はご自分が撮影されている最中、三昧にお入りになりました。
聖ラーマクリシュナが写真スタジオへ行って写真の仕組みを学ぶのを好んだのは、師にとって不自然なことではなかったようです。「コタムリト」には、師がその仕組みについてお尋ねになったと記されています。スレンドラは事前にカメラマンに知らせていたと推測されます。物体の像が硝酸銀に刻印される過程を説明されると、師の心は瞑想と外界意識の喪失とは霊的に密接な関係があるという思いに捉えられ、カメラマンは写真を撮る機会を得ました。
この日(1881年12月10日)の「コタムリト」の記述
1881年12月10日(土)
(前略)
午後三時ごろ、聖ラーマクリシュナはマノモハンの家においでになり、そこで休息して、飲み物などを少々召し上がった。スレンドラは言った。「あなた様は写真機を見たいとおっしゃっていましたね。では、行きましょう」
スレンドラはタクールを馬車にお乗せして、ベンガル写真館にご案内した。スタジオでは、どんなふうにして写真が写るかの説明をお聞きになり ―― ガラス面に硝酸銀を塗って、そこに映像をとらえるのである。
タクールの写真を撮ることになり ―― 撮られている間に三昧にお入りになった。
それからタクールは、ラジェンドラ・ミトラの家にいらっしゃった。
(後略)
聖ラーマクリシュナが「コタムリト」の中で語る写真に関する記述
1882年12月14日(木)
神様が心(しん)から好きになれない間は、まだ未熟な(あおい)信仰だ。あの御方が大好きになった時、その信仰を成熟(うれ)た信仰と呼ぶのだ。
信仰が未熟な(あおい)間は、神についての話も教えも、はっきり正しく理解することができない。成熟(うれ)た信仰になれば、よくわかるようになる。
写真のガラス板にインキ(硝酸銀のこと)が塗ってあれば、写った像が焼き付けられる。けれど、ただのガラス板だけなら、何千の像が写っても一つも焼き付かない―― 写ったものがなくなれば元のままのガラス板だ。神様に対する愛がなければ、教えを身につけることはできない」
1883年6月10日(日)
真正(まこと)の信仰者を表す特徴(しるし)がある。グルの教えを聞いて落ち着いていること。蛇使いが口笛を吹いていると、キングコブラは傍でジーッとして聞いているだろう ―― ただのコブラじゃないよ。
もう一つの特徴(しるし)は、理解力が強くなることだ。写真のようなものでね。ただのガラスの上には絵像が写らないが、感光液を塗ったガラスの上だとちゃんと絵が写る。信仰がこの感光液にあたる。
油絵「スタジオ・ポートレートから描かれた油絵」

この写真が撮影された直後、聖ラーマクリシュナの姿が模写され、(腕の位置を反転させた)宗教の調和を描いた油絵が描かれました。スレンドラはこの絵の制作を手配しました。絵にはキリスト教の教会、モスク、シヴァ寺院が描かれています。これらの礼拝所の前には、シャクティ派、ヴィシュヌ派、シヴァ派、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒が並んで立っています。キリストは聖チャイタニヤと踊り、3、4人の信者が見守っています。左隅には、スタジオのポーズを少し変えた聖ラーマクリシュナが立っており、ケーシャブの注意をその光景に引き寄せています。
聖ラーマクリシュナは少なくとも一度は原画を目にしています。
(『1882年10月27日(金)コタムリト』参照)
原画の複製が存在し、師も少なくとも一度はナンダ・ボースの家でご覧になったことが知られています。
(『1885年7月28日(火)コタムリト』参照)
写真3「礼拝」のポーズ

撮影日時:1883年10月、1884年2月2日以降など諸説あり
(1883年10月のある日曜日が有力)
撮影場所:ラーダーカーンタ堂のベランダ
撮影者:アビナーシュ・チャンドラ・ダーン
この写真はドッキネーショルのラーダーカーンタ堂のベランダで撮影されました。ラーマクリシュナはラーダーカーンタ堂の西側に座り、中庭越しに十二のシヴァ堂の方を向いています。
バラナゴル出身の師の信者、バヴァナート・チョットパッダエは師の写真を撮りたいとずっと思っていました。ある日、彼は師に撮影の許可を願い出ると、翌日にはカメラマンのアビナーシュ・チャンドラ・ダーンを連れて来ました。しかし、師は撮影されることを嫌ってラーダーカーンタ堂の方に立ち去ってしまいました。
ちょうどその時、ナレンドラがやってきてすべてを耳にしました。スワミジーは「私が何とかしましょう」と言って彼は聖ラーマクリシュナのもとへ行って、話を始めました。するとすぐに、師はサマーディに入りました。スワミジーはバヴァナートを呼んで、急いで写真を撮る準備をするように言いました。
サマーディの状態になった師の体は片側に曲がっていたため、カメラマンはアゴをそっと動かして、師の体をまっすぐにして座らせようとしました。しかし、師のアゴに触れた途端、師の身体が一枚の紙のように浮き上がりました。なんと軽かったことでしょう! するとスワミジーは「おや、何をしてるんだ? 急いで写真を撮影しろ!」と言いました。カメラマンは急いでシャッターを切りました。師はこの出来事に全く気づいていませんでした。
アビナーシュ・ダーンは師の撮影後、ガラス管板のネガを取り出す際に誤って落としてしまい、上部のガラスの角を割ってしまいました。ダーンはその欠陥を隠すため、上部の一部を半円状に切り取りました。そのために写真の上部には写っていないのです。
数日後、バヴァナートが写真をプリントして持って来ると、師はこうおっしゃいました。
「これは高次のヨーガの境地を表しているんだよ。時が経つにつれて、この姿はあらゆる家庭で礼拝されるようになるだろう」
ある時、聖ラーマクリシュナはこの写真を見て恍惚状態になり、頭に何度も写真を押し当てながらこうおっしゃいました。
「実に美しく撮られています。この境涯はとても高いものです。神の内に深く溶け込んでいます。ここには神が、その本質において完全に表れている」
聖ラーマクリシュナご自身もこの写真を礼拝されました。シュリ・サーラダ・デーヴィーはこう言いました。
「私はその写真を他の神々の写真と一緒に祀(まつ)って、礼拝していました。
かつて私はナハバトの1階に住んでいました。ある日、師がそこに来られ、その写真を見て、『こんにちは、これは一体何ですか?』とおっしゃいました。ラクシュミーと私が階段の下で料理を作っていた時のことです。
その時、師がそこに摘んで置いていたベルの葉と花を手に取って、その写真に捧げているのが見えました。師は写真を礼拝していたのです。」