ラーマクリシュナのことば

スワミ・アベーダーナンダ

  山尾三省訳

 第 3 章 

「 “女と金”としてのマーヤー 」

〈 セックスの束縛 

(66)

 マーヤーとは何だろうか。それは精神の進歩を妨げる肉欲である。

 

(67)

 すべてのものをむさぼるものはマーヤー、つまりメーエー(女と金)だろうか。

 

(68)

 世俗の事どもにからめとられた魂は、“女と金”の誘惑に打ち克って心をまっすぐに神に向けることができない。

 

(69)

 注意深くありなさい。家住者よ! 女たちをあまりにも信頼しすぎないように……。彼女たちは非常に陰険に、お前たちの上に支配権を作り上げてしまう。

 

(70)

 煤(すす)だらけの部屋に住むことはできない。そして、どんなに注意しても、少しも汚れることなしにそこから逃げ出すことはできない。同じように、もしお前が女と仲良くしているなら、それがどんなに少しだとしても、幾分かの肉欲がお前の内に起きてくるように出来ている。それはお前がどんなに用心深くあっても、また、お前の感覚が制御されていたとしても、そうなるのだよ。

 

(71)

 高熱にうなされて、半ば錯乱している男のそばに、氷のように冷たい水の壺や風味の良いソースのびんが置いてあったとしたら、喉が渇き不安にとらわれている彼にとって、水を飲みソースを舐める誘惑に逆らうことが出来ると思うかね? 同じように、肉欲の高熱に苦しみ、感覚の喜びに渇えている世の男は、美しい女の魅力と富の魅力の間に置かれれば、その誘惑に逆らうことは出来ないのだ。彼はまちがいなく、信仰の道からそれていく。

 

(72)

 ある時、マルワリの紳士がシュリ・ラーマクリシュナに近づいて言った。

「師よ、私はすべてのことを放棄しましたが、神を見ることができないのはどういうわけでございましょう?」

 師「ああ、お前は油をためておく皮の袋を見たことがあるかね。その中味が空になったとしても、やはり幾分かの油と香りとが残っている。同じように、お前の内に幾分かの世俗性が残っており、その匂いがこびりついているのだよ。」

 

(73)

 カミニ・カンチャナ(女と金)は、よく覚えておきなさい。人を世俗性の内にどっぷりとつけ、神から離れさせる。

 

(74)

 猿が狩人の足元に己(おのれ)の身を犠牲にするように、男は美しい女の足元に己(おのれ)の人生を空しくする。

 

〈 セックスと精神の進歩 〉

 

(75)

 神に至りたいと願い、信仰の実践の内に進歩したいと願う人は、富と肉欲のワナに対して特別に自分を守らなければならない。そうしなければ、彼は決して完全さには至らない。

 

(76)

 ニチャナンダがシュリー・チャイタニヤに尋ねた。

「私の神聖な愛の教えが、人々の心に、手で触れられるような明らかな効果を現さないのはどうしてでしょうか?」

 シュリー・チャイタニヤは答えた。

「女と仲良くしているのでは当然のことだ。彼らは、より高い教えに至ることはない。兄弟ニチャナンダよ、聞きなさい。世俗の心を持つ人に、救いはないのだ」

 

(77)

 天秤測りの指針が、頂点を指さないで動くのはどういう時かといえば、一方が一方よりも重くなった時なのだ。同じように、女と金の喜びが心に置かれた時、心は神から逃げ出し、そのバランスを失う。

 

(78)

 水壺の底に小さな穴が空いていれば、いつかは水はすべて流れ出してしまう。同じように、神を希む人の内に最も小さな世俗気があるならば、彼のすべての努力は無いものとなるのだ。

 

(79)

 性的本能に対して、絶対的な支配力を得るよう努めなさい。人がもしこのことに成功するなら、メダー(低次のエネルギーを高次のエネルギー変化させる機能)と呼ばれる今までは未発達だった神経の進歩によって、体の内に生理的な変化が産み出されるだろう。このメダー神経の発達により、より高い自我の知識が得られるだろう。

 

(80)

‘女と金’への愛着に浸っている心は、青いびんろう樹の実のようなものだ。びんろう樹の実が青いあいだは、その中の種は殻にくっついている。だがそれが乾いた時には、殻と種とは別々になって、振るとカラカラ音をたてて鳴るようになる。そのように、‘女と金’への愛着が乾いた時には、魂は肉体とはまったく別なものとして認められる。

 

(81)

 心が感覚対象への愛着から自由になった時、心は神に向かい、神の上に定められる。縛られた魂は、このようにして自由になる。神からそれる道へと連れてゆく魂は、縛られている魂なのだ。

 

(82)

 富とセックスへの愛着が心から拭い去られた時に、魂には他に何が残るのだろうか? ただブラフマンの至福だけが残るのだ。

 

 

〈 どのようにしてセックスを制御するか 〉

 

(83)

 毒蛇のむらがっている家に住んでいる人が、常に油断なくあるように、世に住む人々は常に、肉欲と貪欲の魅力に対して見張りしていなくてはならない。

 

(84)

 蛇がやってくると私達は云うだろう。「母なるマナサ、どうぞ頭を隠して尻尾だけ見せて行ってしまいますように――」そのように、激しい欲望を与えるようなものからは離れているのが賢いことなのだ。堕落から経験を得るよりは、それらと接触を持たないでいる方がはるかに良い。

 

(85)

 或る時一人の弟子が、どうやって肉欲を制御するかとシュリ・ラーマクリシュナに尋ねたことがあった。その弟子は毎日瞑想にすごしていたけども、いつでも良くない思いが心に起こってくるのだった。彼に対して師は話された。

「犬を飼っている人がいた。彼はその犬を抱いて可愛がり、どこへでも腕に抱えてゆき、一緒に遊び、キスしたりした。或る賢い人が彼の愚かな振る舞いを見て、犬へのそんな愛情で人生を浪費しないように戒めた。なぜかと云えば、それは結局、理性のない獣であり、いつの日か彼に噛みつくかも知れないからである。彼はその戒めを心にいれて、犬を放し、もう二度と抱きしめたり、なぜたりしないことに心を決めた。けれども犬は主人の気持ちの変化を理解することができず、抱きあげられ愛撫されようとして、何度も何度も彼の所に走り寄ってきた。何回も何回も打たれて、犬はとうとう主人にじゃれついて困らせるようなことはしなくなった。このような状態がお前なのだ。長い間胸に抱いて育ててきた犬は、お前がそれからどんなに逃れようとしても、そう簡単には離れてはいかない。けれども、もうそこに害はないのだよ。これ以上、犬をなぜてやらなければ良いのだ。抱きしめられようとしてやって来たら、いつでも適度に打ってやることだ。そうすればやがて、お前たちは共に、そのしつっこさから逃れることになるだろう。

 

(86)

‘女と金’は、全ての世界を罪におとし入れてきた。女は、聖なる母の化身として見られた時にはじめて、警戒心を解いて良い。人の‘女と金’への情熱が消されてしまわない限り、神が見られることはない。

 

(87)

 人が激しいヴァイラギャ(世俗の情熱からの自由)により、いったん神に至るならば、セックスの誘惑は消え失せてしまう。そして彼は、自分の妻からさえも、もはや危険はないことを見出す。もし二つの磁石が鉄のかけらから同じ距離の所にあるとしたら、そのどちらが鉄を引きつけるだろうか。確かに、より大きい方のものが引きつける。間違いなく神は、大きい方の磁石なのだ。小さな磁石である女が、何を為すことができよう。

 

(88)

 蛇は毒あるものである。捕まえようとすれば、必ず噛みつかれる。けれども、磁気を帯びた砂金を使う蛇惑わしの技術を学んだ者にとっては、蛇を捕まえることはそんなに難しいことではない。彼は、お互いに絡みついた七匹もの蛇を首の廻りに巻き付けたりして、遊ぶことさえ出来る。(同じように、神を実現した人は、世俗的生活の危険から逃れている)

 

(89)

 ある時、マルワリの紳士がシュリ・ラーマクリシュナのもとへ行き、何千ルピーかの贈り物をする許しを乞うたことがあった。けれども師は、この富を意味する贈り物に対して、固い拒絶しか与えられなかった。師は云われた。

「私は、あなたのお金ですることは何もないのだよ。それに、もし私がそれを受け取れば、心はいつもお金の上に住んでしまうからね」

 そこで紳士は、「シュリ・ラーマクリシュナの親戚の名で師への奉仕のために使うよう、そのお金預けておかして欲しい。」と申し出た。これに対して師は答えた。

「いけない。それは二重の取り引きになるから――。そのことが、いつでも私の心にあるばかりか、私は誰それの所にお金を持っている、ということになるのだから――」

 けれどもマルワリの紳士は、シュリ・ラーマクリシュナ御自身の、『心が油のようであれば、それは女と金の大海の上にでも浮いていられるのだ』という言葉を引用して、彼の申し出をくりかえした。

 これに対して師は言い返された。

「そのことは本当だ。けれども、油がかなりの間水に浮いていると、やがて溜まってしまう。同じように、心は女と金の大海の上に浮いているだけであっても、長い間それと関係を持ち続けていると、確実に心は変化していき、悪い匂いを放つようになる。」

 

 

〈 富と精神的な熱望 〉

 

(90)

 富を追い求めることが、神の道から信仰者を外らせる事実に関して、或る時、師は若い弟子に云われたことがあった。

「お前は、世俗の人のように給料をもらえる地位についた。だがお前は、お母さんのためにそうしたのだった。そうでなかったら私は、“恥を知れ!”と叫ぶところだったろう」

 師は何度も同じことを繰り返した後、言われた。

「ただ、主のみに仕えなさい」

 

(91)

 お金が目的で行われる行為がもたらす堕落に関して、或る時、師は若い弟子に云われたことがあった。「悪い兆しが彼の顔に現れている。暗い影のある膜が顔に拡がっているように見える。これはすべてオフィス仕事のせいだ。あそこでは、計算やら、しなければならないことが百もある。

 

(92)

 金は非常に強い性質のウパディ(ごまかしの影響力)だ。人が金持ちになると、たちまちすっかり変わってしまう。あるとても柔和で謙遜なバラモンが、以前よくここ(ダクシネスワール)へやって来た。しばらくして、彼は来なくなった。私たちは、彼に何が起こったのか誰も知らなかった。或る時私たちは、船でコンナゴーレに行った。船を降りると、そこガンジスの土手に彼が坐っているのに出会った。彼は西洋式の服装をして、清らかなガンジスの風を楽しんでいた。私を見るや、彼は、言葉にパトロンのような響きを込めて話しかけた。「ハロー、タクール! ごきげん如何です?」

 私はすぐに彼の言葉のひびきの内の変化を見て、一緒に来ていたフリダイに云った。

「フリダイ、云っておくが彼は金持ちになったにちがいないよ。見てごらん。彼は何とまあ、変わってしまったことだろう。」

 するとフリダイは吹き出してしまった。

 

(93)

 金は、ただパンだけを運んでくるものだ。それを、唯一の終わり、または目的などと考えてはいけない。

 

(94)

 自分の富や力、名や名声、社会的に高い地位などを誇る人がいる。だが、そんなものは、ほんの二、三日のことなのだ。死んだ後、彼についてゆくものは何もない。

 

(95)

 主は、二つの光景を見て微笑んでおられる。ひとつは、医者が重い病気で死にかかっている患者のベッドの所へ来て、その母親に、「奥さん、何も心配されることはありません。私が責任をもって息子さんの命を助けますから」という場合だ。次は、二人の兄弟が忙しそうに土地を測るひもを持ってきて、地面に引き渡し、「こっち側は僕のもの、そっち側は君のもの」と云っている場合だ。

 

(96)

 金のことに関しては、誇るべきものは何もない。お前が金持ちだと言うなら、もっともっと金持ちの人間がたくさん居る。その人に比べたら、お前など乞食にも等しい。

 日が暮れて土ボタルが光りだす。土ボタル達は、「我々は、世界に光を与えているのだ。」と考える。けれども星がまたたき出すと、土ボタルの誇りは卑しめられてしまう。今度は星たちが考える。「我々は、宇宙をきらめかしているのだ。」けれども、しばらくして月が空に昇ってくる。彼女の銀色の光は星たちをはずかしめる。星たちは悲しみに青ざめる。再び月が高ぶって、彼女の光により世界は照らされ美を浴びせているのだと考える。けれどもやがて、夜明けが東の地平線に太陽が昇ってくることを告げる。そして今や、月はどこへ行ってしまったのだね!

 自分は金持ちだと考える人が、この自然の事実をよく考えて見るなら、彼は決して決して自分の富や力を誇ることはないことが判るだろう。

 

(97)

 水はいつでも橋の下を流れてゆき、よどむことがない。そのように金は、手から手へと自由に渡ってゆき、決して手によって貯えられるものではない。

 

(98)

 金は、自分にとってただ召使いに過ぎない、と思う人は本当の人である。けれども一方で、その適当な使い方を知らない者は、ほとんど人と呼ぶに値しない。