ラーマクリシュナのことば
スワミ・アベーダーナンダ
山尾三省訳
第 2 章 「 マーヤー 」
〈 主の宇宙的な力としてのマーヤー 〉
(48)
マーヤーとブラフマンの関係は、動いている蛇とじっとしている蛇の関係のようなものだ。活動している力がマーヤーであり、ひそんでいる力がブラフマンである。
(49)
海が、あるときは静かに凪ぎ、次の瞬間には大波となる。ブラフマンとマーヤーはそのような関係にある。静かな海はブラフマンであり、荒れ狂った海はマーヤーなのだ。
(50)
ブラフマンとシャクティの関係は、火とその燃える特性の関係のようなものである。
(51)
シヴァ(知恵)とシャクティ(エネルギー)は創造のために共に必要なものである。乾いた粘土では誰も壺を作ることはできない。やっぱり水が必要だ。そのようにシヴァは、シャクティの助けなしには何も創造することはできない。
(52)
マーヤーを見たいと願って、私はある時、ひとつのヴィジョンを見た。小さな水滴がゆっくりひろがって一人の少女になった。少女は成人して子供を産んだ。子供が生まれるや否や、彼女はそれを取り上げて呑みこんでしまった。そこで私は、彼女がマーヤーなのだと知った。
(53)
蛇そのものは、牙の中の毒に影響されることはない。けれどもそれが噛みついた時、毒は相手を殺す。そのように、マーヤーは主の内にあっては、主に何の影響も及ぼさない。その同じマーヤーが全世界を惑わすのだ。
〈 惑わしの力(アヴィディヤ)としてのマーヤー 〉
(54)
あるサドゥー(修行者)がダクシネスワール寺院の一室にしばらく住んでいたことがあった。彼は誰にも話しかけることなく、一日中神を瞑想して過ごしていた。ある日突然に雲が空をおおって暗くなり、しばらくすると光が雲を吹き払ってしまった。サドゥーは部屋から飛び出してきて、笑い、かつ踊った。
このことについて師が尋ねた。
「部屋の中であんなに静かにしていたあなたが、今日は喜ばしそうに踊ったりして大変嬉しそうなのはどういうわけなのか」
聖者は答えた。
「これこそが人生を包み込んでいるマーヤーなのです! 前にはそこには何の痕跡もなかったのに、それはすべてのものを創り出す澄み切ったブラフマンの空に突然現われ、そしてまたブラフマンのひと吹きで散り去ってしまったのです。」
(55)
ラーマとシーターとラクシュマナは追放人として森へ行った。ラーマが先頭に、シーターが中に、ラクシュマナは彼女の後に従った。ラクシュマナはいつでも、ラーマの全身を見失うまいと気をつかっていた。だが、シーターが中にいるのでそうすることができなかった。そこで彼はシーターに、ほんの少し横へどいてくれるように祈った。すぐに彼女はそうした。ラクシュマナの願いはかなえられ、ラーマを見ることができた。これがブラフマンとマーヤーとこの世のシヴァとの姿である。マーヤーの幻がよけてくれない限り、創造されたものは創造者を見ることは出来ない。人が神を見ることは出来ない。
(56)
以前に、ある聖者がプリズムをのぞいて笑っていた。そのわけは、プリズムをとおして赤や黄色や青や色々な色を見ることができるからだった。それらの色がニセの色だということは承知で、世界もまた同じようにニセ物なのだと、微笑みながら覚ったのだった。
(57)
ライオンの頭の仮面をかぶったハリは、本当に恐ろしげに見えた。彼は小さな妹が遊んでいる所へ行き、物すごい声で吠えた。妹は驚き、恐ろしさに金切声をあげてこの怪物から逃げようとした。けれどもハリが仮面をとると、妹はたちまち愛する兄を認めて駈け寄りながら叫んだ。「なあんだ、お兄ちゃんじゃないの!!」これはすべての人にあてはまる話だ。すべての人は、その背後にブラフマンが自身を隠しているマーヤー――無知の測り知れない深い力によって、惑わされ驚かされながらすべてのものごとを為しているのだ。けれども、マーヤーのベールがブラフマンの顔からとりのぞかれた時に人は、主の内に、恐ろしい顔も、決して譲歩しない強情さも見ることはない。ただ、自分自身の最も愛する内なる自我を見るばかりなのだよ。
(58)
もし神が遍在するものなら、何故私達はそれを見ることができないのか? 浮きかすや雑草で厚くおおわれている池の土手から見ても、水そのものを見ることは出来ないだろう。水を見ようと思えば、池の面の浮きかすを動かさなくてはだめだ。マーヤーのフィルムでおおわれた眼をしてお前は、神が見えないと不平を云う。お前が神を見たいと願うなら、眼からマーヤーのフィルムを取り去れ。
(59)
雲が太陽をおおうように、マーヤーは神性をおおいかくす。雲が流れ去れば、太陽は再び現われる。マーヤーが去れば、神は明らかに現れるのだよ。
(60)
不思議な白鳥は、水で薄めたミルクから、ミルクだけを分離して飲むことができる。水は残される。他の鳥はこんなことは出来ない。神はマーヤーと親密に混じり合っている。普通の人は、マーヤーを離れて神を見ることはできない。ただパラマハンサだけが、マーヤーを拒絶して、彼の純粋の内に神に達することができる。
(61)
お前が、宇宙的な惑わしであるマーヤーの性質を見つけ出すことができれば、マーヤーは見つけられた泥棒が逃げだすように、お前から逃げだすだろう。
〈 解放する力(ヴィディヤ)としてのマーヤー 〉
(62)
神の内にヴィディヤ・マーヤーとアヴィディヤ・マーヤーの二つがある。ヴィディヤ・マーヤーは人を神へと導き、アヴィディヤ・マーヤーは堕落へと導く。知識、信仰の愛、冷静、同情、これらすべてはヴィディヤ・マーヤーの現われである。これらのものの助けを受けてのみ、人は神に至る。
(63)
ブラフマンをあらわすものはマーヤーである。マーヤーなしに、誰がブラフマンを知ることができたであろう。神の力のあらわれであるシャクティを知ることなしには、神を知る手だてはない。
(64)
最高の知識に到達し、究極の至福が私達にとっても可能であるようにすることこそ、マーヤーの義務である。さもなければ、誰がこれらすべてのことを夢みることができよう? ただマーヤーからのみ、二元性、相対性が湧き出す。マーヤーを超えては、楽しむ者も楽しみの対象物もありはしない。
(65)
親猫は仔猫を歯でくわえるけども傷付けはしない。けれども、ネズミをくわえ込んだ時には殺してしまう。そのように、マーヤーは決して愛をもって信仰する者を殺しはしない。それは他のものを破壊する。