ラーマクリシュナのことば
スワミ・アベーダーナンダ
山尾三省訳
第 5 章
「 書物による学習の束縛 」
〈 単に書物による学習の不毛性 〉
(137)
ある日、今は故人となったケーシャブ・チャンドラ・センがダクシネスワールの師ラーマクリシュナの所へやってきて尋ねた。
「宗教的な書物ならすべて読んでいるほど学問のある人々が、真に大切な精神生活については度しがたいほど無知なのは、一体どういうわけなのでしょうか?」
師は答えた。
「トビやハゲタカは空中高く舞いあがるけれども、その眼はいつでも死体の腐肉を求めて納骨堂のあたりをさぐっているものだ。同じように、いわゆる学問のある人はどんなに博学に神秘を学んでも、世俗のこと、肉欲や富にしっかりと結びつけられているのだ。だからこそ、彼らが知識に至ることはないのだ。」
(138)
心とハートを清める知識こそが真実の知識であり、他のものはすべて、知識の否定にすぎない。
(139)
ただ本を読む学習が何の役に立つだろう。学者達は、神聖な書物や対句をいやというほど知っているかも知れないが、それを繰りかえすことに何の意味があろう。人は聖典の中に具現されている真実を、自分の人生において実現しなくてはならないのだ。人が世間に執着し、女と金を好んでいる限りは、いくら書物を読んでも、知識も救いもやって来はしない。
(140)
いわゆる学者達は大きなことを言う。彼らはブラフマンについて語り、神について語り、絶対性、知識のヨガについて語り、哲学や存在論を語る。けれども、彼らがそれについて語っているものを実現する人は殆どいない。彼らは乾ききっており、堅っ苦しくて、結局、何の役にも立たない人たちだ。
(141)
口でドレミファを言うのは簡単だが、それを楽器でやるのは大変だ。宗教についても、しゃべるのはやさしいことだが、それを実行するのは難しい。
(142)
しこまれたオウムは、ラーダー・クリシュナの聖なる名を繰り返すが、猫の爪にかかるや否や、カング、カングと叫び声をあげる。それがオウム本来の声なのだ。世間の賢い人たちは、時に応じてハリの御名を唱え、世俗の希みの中で信心深い行為や慈善行為をするけれども、悲運、悲しみ、貧困、そして死が彼をとらえた時には、ハリのことも、すべての善い行いのことも忘れてしまう。
(143)
神の愛は、聖なる書物を読むことによって得られるだろうか。ヒンドゥーの暦には、年の内の特定の日にはたくさんの雨が降るだろうと記されてあるが、その暦をしぼり出したところで、一滴の雨も出てきはしない。聖なる書物の中には多くのすばらしい言葉が見つかるだろうが、ただそれらを読むだけでは人が宗教的になることはない。神の愛を得るためには、それらの書物の中のうるわしい言葉が実行されなければならない。
(144)
神の王国にあっては、理性も、知性も、学問も、何の役にも立たない。そこでは啞がしゃべり、盲目が見、つんぼが聞くのだ。
(145)
聖典を読んで神について語るとは、ベナレスの地図を見ただけでベナレスについて語るのと同じことだ。
(146)
大麻の酔いは、大麻という言葉を千回繰り返したとて得られるものではないだろう。大麻を手にとり、水を混ぜて、どろどろになるまで突きくだき、それを飲みなさい。そうすればお前は、本当の酔いを知るだろう。大声で、神よ、神よ、と叫んだとて、何になろう。絶え間なく、神への愛を行いなさい。そうすれば、お前は神を見るだろう。
(147)
この神の知識は、学問や富を誇る人の所へは、決してやって来ない。そんな人にお前は言ってやるがいい。
「ある所に聖者がいる。あなたはその人に会いたいと思いますか?」
すると彼は、必ず弁解をして自分は行くことができないと言うだろう。彼は、そんな男をたずねるほど自分は小さな人物ではない、と考えているのだ。このようなプライドこそ、無知の産物なのだ。
(148)
少しばかり書物を読んだ人ほど、プライドで膨れ上がっている。私はかつて、ある人と神について話し合ったが、彼は言うのだ。
「ええ、そうです。私はみんなよく知っています。」
それで、私は彼に言ったものだ。
「デリーに行ったことのある人が、それを誇って歩きまわるものだろうか。本当の紳士が、自分は紳士ですよ、と言ったためしがあるだろうか。」
(149)
“グランツァ”という言葉は、いつでも聖典を意味するとは限らない。しばしばそれは、“グランツィ”、つまり、“もつれ目”を意味するようになる。人が真実を知りたいという強い願いなしに、またすべての空しいものを放棄しようという気持ちなしに書物を読むならば、読書はただ多くの“もつれ目”のように、心の妨げとなる学者振りや、でしゃばりや、利己主義を作りあげるだけのことだ。
(150)
灰の山に注がれた水は、たちまち乾き上がってしまう。虚しさはこの灰の山のようなものである。虚しさに満たされた心には、祈りも、瞑想も、何の効果もありはしない。
以下、第5章(151)~(167)は 「未訳」