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最 高 の 信 念

ヴィヴェーカーナンダ

    佐野甚之助訳

「現代佛教」第四巻一月号/大雄閣刊

大正15年12月25日印刷

現代仏教第4巻1月号表紙.jpg

 ヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教の一派ラーマクリシュナ宗を欧米各国に宣伝してこれを世界的ならしめた非常な雄弁家である。一八九一年米国シカゴで開かれた世界宗教大会において、ヒンドゥー教の為に熱弁を振るったことで有名である。その師匠であるラーマクリシュナは、十九世紀後半にヒンドゥー教を社会的民衆的ならしめた代表的聖者であって、ガンディーの評したように「無傷害(アヒンサ)の権化」である。ヴィヴェーカーナンダはよくこの師匠の教えを世界に伝えたと云われ、タゴール、ガンディーの先輩である。(佐野甚之助)

(一)

 人格神の観念のないという宗教はほとんどない。おそらく仏教とジャイナ教とを例外として、世界の諸宗教はことごとく人格神を認めていて、信仰や礼拝がそれから生じている。仏教とジャイナ教、この二大宗教は人格神をもってはいないが、その代わりに他の宗教において人格神を礼拝するのとちょうど同じ方法で、その開祖を拝んでいる。このように何かしらあるものを信仰したり礼拝したりして慰安を求むるということは、全ての宗教に共通のものであって、それが宗教の進歩発達の過程の如何(いかん)によって色々な形をとって表れる。その最も幼稚なものというと儀式教である。未開の時代では、人間は抽象的なものを以て満足することが出来ず、なんでも具体的なものを欲しがる。したがって神にも形をもたせることになって、色々な象徴が生じてくる。世界の歴史を見ると、人間は形体や象徴をとおして抽象を掴もうとしていることが分かる。宗教の外観をなすもの――鐘とか、音楽とか、儀式とか、経典とか、又は神仏の像とか、すべて我々の五感に触れるもの、抽象的観念を具現するに都合の良いものを何でもとらえてそれを拝むのである。

 

 このような象徴とか儀式とかを排斥しようとして立った革命家は、古来いずれの宗教にもあったのであるが、そういう企てはすべて水泡に帰してしまった。それは一体なぜであろうか。たしかに人類の最大多数は、何かしら具体的なものを捉えて、それによって安心を得、それを中心として種々の理想を築き上げようと欲するからである。イスラム教徒や、キリスト教徒の中の新教徒(プロテスタント)などは、全ての儀式を廃止しようと非常な努力をしたのであるが、それでも儀式は取り付いていて離れない。もし一つの形式を斥(しりぞ)けても、また直ちに他の形式がその後に出てくる。他の宗教の全ての儀式や象徴を以て邪法なりとするイスラム教徒も、自分たちのすることには盲目的である。信心深きイスラム教徒は一日に何度も、カアバ神殿に居るような心持ちで神に祈らなければならない。又カアバ神殿に巡礼に行った時には、寺の壁にある黒い石に接吻しなければならない。幾百千万の同教徒によって、その石の上に印せられた接吻は、最終の審判の日に信心の証拠となると考えられている。又ザムザムの井戸というものがある。罪業深き者もその井戸の水を汲めば、神のお赦(ゆる)しを得て心身が浄められ、復活の日の後までも永生疑いなしと、イスラム教徒は信じている。

 

 他の宗教においては、礼拝の目的物――即ち象徴が、建物の形になっていることもある。新教徒(プロテスタント)の考えによれば、教会をもって他の全ての場所よりも一層神聖なものとする。また聖書についてもそうである。聖書は、彼らから見れば他の象徴よりも一層尊いものである。新教徒(プロテスタント)の十字架の記章を重んずることは、あたかもカトリック教徒が聖人の像を崇(あが)めるのと異ならない。このように象徴の使用を廃止しようとすることは、いつもその功を奏しないのである。それなのになぜ、我々はその廃止を企てようとするのだろうか。

 

 人間はこの世の中で、こういう象徴を用いてはならないという理由は少しもない。この宇宙も実は一つの象徴であって、これによって我々はそれを超えている或るもの、その陰に潜んでいる或るものを掴もうと努めている。物質界を超越して精神界に達しようと努めている。物質だけでは満足せずして、精神に触れようとする。精神が目的であって、物質ではない。神仏の像、鈴鐘、灯明、経典、教会、寺院、その他全ての神聖視されている象徴は、霊性の芽を培(つちか)う上において大いに助けとなるものであるが、それはただそれだけに止(とど)まるのである。大抵の場合においては、その芽は萌え出でずにしぼんでしまう。教会で生まれるのはよいが、教会で死ぬのは何らの意味もなさない。霊性の芽の生長を助ける或るものに頼るのはよいが、それに頼っただけで死ぬならば、その人は精神上において何らの進境をも見なかったというべきである。

 

 それゆえに、もし象徴とか、儀式とかが、永久に存続されるべきものとするならば、その人は誤っている。が、もしそういう象徴とか儀式とかが、精神の開発を育(はぐく)むものであるとするならば、その人は正しい。ここでちょっと注意しておくが、精神上の発達を知識の意味に誤解してはならぬ。人間の中には、偉大なる智力を有していても精神上から見て赤ン坊であることがある。今ここで直ぐその例をお目にかけることが出来る。諸君は誰も、在(おわ)さざるところなき神(遍在の神)を信ずるように教えられているが、それを一つ考えてご覧なさい。在(おわ)さざるなき(遍在)ということがどんなことか分かるものは、極めて少なかろうと思う。諸君はそれを考えようとして、或いは大洋とか、或いは天空とか、或いは茫漠(ぼうばく)たる広野とか、或いは又、際限なき砂漠を心に描くことであろう。が、そういうものは全て形のあるものである。諸君が抽象を抽象として、実相を実相として観念することが出来ない間は、頭の内にしろ外にしろ、そういう形体、そういう具象を通して神を掴もうとする。諸君は生まれつき偶像崇拝者である。偶像崇拝は人の性に付きまとっている。それを超越し得るものは誰か。唯、完全位に達した人――神人のみこれを能(よ)くするのであって、他は悉(ことごと)く偶像崇拝者である。諸君は形に捉(とら)われてこの宇宙を眼前に見ている間、悉(ことごと)く偶像崇拝者である。諸君はこの無限の象徴的大宇宙を、なぜ色とか、形とかを通して想像するのであるか。実に宇宙は、諸君が礼拝する厖大なる偶像であるのである。また人間を以て肉体であるというものは、生まれつきの偶像崇拝者である。人間は形などをもっていない精神である。無限、無窮(むきゅう)であるところの精神である。物質ではない。それ故に自分を肉体とか物質とかであると考える者、抽象を掴むことの出来ない者、形体を通してでなければ自己を考えることの出来ない者は偶像崇拝者である。然(しか)るに人々は、互いに他を偶像崇拝者だと言って喧嘩をしているのはおかしなことである。皆自分の偶像は正しいが、他の偶像は間違っていると罵(ののし)り合っている。

 

 それで我々は、こんな精神上の赤ン坊みたいな愚かな考えを一掃しなければならない。我々は宗教を以て単に嘘、デタラメとなす者や、宗教を以て単に教義上の体系となす者や、宗教を以て単に小さな知識上の問題となす者や、宗教を以て単に僧侶の説教を信ずるにありとなす者や、宗教を以て先祖が信じたる或るものとなす者や、もしくは宗教を以て或る思想とか、迷信とかであるとなす者や、そういう人々のうわごとを一掃しなければならない。そうしてこれらを一掃して徐々に光明に向かって進み行く、生き生きした一箇の有機体としての人類に目を転じなければならない。この不思議なる霊の萌芽は徐々に伸び開いて、遂には神という驚くべき真理に到達するのである。しかもここに至る最初の出発は、いつも形式や儀式を通して起こる――どうも仕方がない。

 儀式教の中で最も著しいものは、唱名を崇めることである。世界の宗教を学んだ人々は、恐らくは皆このことを知っている筈である。多くの宗教においては、唱名は非常に神聖視されている。『主の御名において』はその一例である。ヘブライ人の間では、唱名は普通の人の口にすべからざる程、神聖なものと考えられていた。人々は唱名それ自身を神なりと考えていた。それには一理ある。なぜならば、この宇宙は名と形とを取り去れば、後に何が残るであろうか。人は言葉によらず考えることは出来ない。言葉と思考とは不可分のものである。諸君がもしこの二つのものを分離することが出来ると思うならば、試しにやってご覧なさい。諸君が考える時には、きっと言葉の力を借りる。言葉と思考とは同時に起こる。この二つは離すべからざるものである。思考には言葉が伴い、言葉には思考がくっついてくる。このように、この全宇宙はあたかも一つの大きな象徴であって、その背後に神という偉大なる名が潜んでいる。各個の物体は各々一つの形であり、それには一つ一つ名がついている。諸君が何某(なにがし)という友人を考える時には、同時にその人の顔が心に浮かんでくる。それと同じく、友人の顔を考える時には、同時にその人の名が心に浮かんでくる。これは人間の天性に具わっていることである。言葉を換えて言えば、人間の心理として、形の観念なくして名の観念は起こらず、名の観念なくして形の観念は起こらない。この二つは不可分である。この二つは同じ波の外面と内面とである。それゆえ、唱名が崇められて、世界中、至るところで礼拝されているのである。意識してか意識せずしてか、人間は名号(神や仏の御名)を荘厳視している。

 

 さらに多くの宗教においては、神人が礼拝されている。クリシュナを拝する者もあれば、仏陀を拝する者もあれば、キリストを拝する者もある。又聖人の崇められていることは、世界中数えるに暇(いとま)なき程である。これも良いことではある。光の波動は至らざるところがない。フクロウは暗闇の中にあってもよく物を見る。それは暗闇にでも光があるからである。しかし人間にはそれが出来ない。人間には灯火や太陽や月の光でなければ、その波動が判らない。神は遍在――在(あら)ざるところのないものである。神は全てのものに御自身を現示している。しかし、人間にとっては、神は人間を通して見えるばかりである。神の光、神の存在、神の御心は、聖哲の顔を通して現れる時だけ、人間が神を了解することが出来る。それで、いつも人間は人を通して神を拝んできた。これに不審を抱いたり、反対したりする人があるが、神を認めようとすると、やはり人間として考えるようになってくる。それでほとんどいずれの宗教においても、神の礼拝には三つの方法がある――即ち次の三つ――象徴、名号、神人である。全ての宗教はこの三つをもっている。にもかかわらず、各宗教はお互いに喧嘩をしている。『我らの神像は真の神像であって、その他は偽りである。』『我らの名号が真の名号であって、その他は偽りである。』『我らの神人は世界における真の神人であって、その他は単に神話に過ぎない』と言って他をけなしている。キリスト教の坊さん達は、近頃いくらか親切になって、こんなことを言う――。古代に発達した宗教における色々な礼拝儀式は、結局唯一の真の宗教に到達する先駆けであって、その真の宗教はついにキリスト教として現れてきたのである、と。これならまだ良い方だ。五十年前であったら、キリスト教の坊さん達はそれすらも言わなかった。彼らは自分たちの宗教以外のものは一切合切、何の役にも立たないものだとけなしていたのである。こういうような考えは、どの宗教とか、どの国民とか、またはどの人とかに限ったことじゃない。人には、自分のすることが一番勝っていると思う癖がある。ところが、そうであろうか。それと同じ思想が、数百年前において既に他の人々によって説かれていることがある。時としては、それが自分達の思想よりもはるかに優れていることもある。

 

 形式的礼拝は、一度は人間の通る道ではあるが、もしその人が真剣ならば、もしその人が真実、真理に到達しようと欲するならば、外形的な礼拝を超越して、もっともっと高いところに達することになる。形体を取り扱うのは単に宗教の幼稚園に過ぎない。子供の準備時代に過ぎない。寺院や、教会や、経典や、儀礼などというものは、人間の精神生活を一層高めるために設けられた子供の玩具である。こういう最初の段階は、宗教を求める人々に必要なものではある。それが段々に進んで、真の信仰、真の信念が生じてくる。しかし、その中で真の信念に達し得る人は幾人いるだろうか。宗教は教義でもなければ、教理でもなければ、または知識上の議論でもない。それはビーイング(実在)である。それはビカミング(生成)である。それはリアライゼーション(実現)である。人々は神や霊魂について、または宇宙の神秘について話はするが、もし、その一人ひとりについて『君は神を実認したか、君は自分の魂を見たか』と問わば、それに答え得る者が幾人あるだろうか。であるのに人々は、お互いに相争っている。かつてインドで諸宗教の代表者が集まって議論したことがある。一人がシヴァ神こそ真の神だと主張すると、他の一人はヴィシュヌ神こそ真の神だと言い争って議論が尽きなかった。この時そこを通りがかりの一人の聖者が先ずシヴァを最も偉大なる神と主張している人に向かって訊ねた。『あなたはシヴァをご存じですか。あなたはその神とお近づきですか。もしそうでなければ、どうしてその神の最も偉大であるということが判りますか。』次に彼は他の一人にも同じ質問をした。『あなたはヴィシュヌをご存じですか……』皆の者に対して質問してみると、一人として神について知っている者はいなかった。知らなかったからこそ、皆が激論を戦わしていた所以(ゆえん)であった。もしよく神を知っているのであったら、何も別に議論などする必要はなかったのである。瓶に水を入れる時に音がする。それが一杯になると音がなくなる。そこに真理があるのである。宗派の間に議論や争闘があるという事実は、人々が宗教の何たるかを知らないからのことである。彼らから見れば、宗教は単に本にでも書き得るような空言(そらごと)、妄語(うそ)の塊(かたまり)に過ぎない。それでよく手当たり次第に他人の書いたものを盗んで書物を作っては、知らん顔してこれを世間に発表する者がある。そうして幾百幾千の議論の沸騰している世の中に、更に騒動を起こす種を播(ま)いて得意になっている者がある。

 

 人間の大多数は無神論者である。近代物質主義者という新しい無神論者が西欧に現れてきたが、この方はまだよいとすべきだ。何となれば、彼らはとにかく真面目な無神論者――宗教について議論ばかりしていて、それを欲しようともせず、知ろうともせず、理解しようともしない不真面目な無神論――よりもましである。キリストが言ったことがある。『尋ねよ、然(しか)らば答えられん。求めよ、然らば与えられん。叩けよ、然らば開かれん。』この言葉は文字通りに真実であって、空言(そらごと)でもなければ妄語(うそ)でもない。これは我々のこの世界にかつて生まれた、最大なる神の子の一人の心の奥底から湧き出した言葉である。これは書物などからでなしに真に神を知り、神を感じた人――我々が今、目の前にこの建物を見るよりも、何倍も何倍も切実に神と共に語り、神と共に住んだ人――の口から、神を実認した結果として生まれ出た言葉である。ところが、それにしても諸君の中に真の神を求める者はあるだろうか。これが問題である。地球上の全人類が神を求めようとはするが、神は得られないと諸君は考えますか。そんなことはあるもんじゃない。外部の存在物なしに、それに対する欲求などはない筈である。呼吸しようとするが、空気がないという人を諸君は見たことがありますか。食べたいと思うが、食物がないという人を耳にしたことがありますか。こういう欲求の本源は何であるか。それは外部の存在物である。目を作ったものは光であり、耳を作ったものは音である。それ故、人類の全ての欲求というものは、既に外部に存在しているものによって作られたものであります。そして、完全に対するこの欲求――自然を超えて究境地(悟りの境地)に達しようとするこの欲求は、それを人間の魂に刻み込み、それを作り、それを活かすようにした何ものかがなければ、そんなことは起こる筈がありません。そうして、この欲求の覚醒したものは、完全位に達することになるのです。しかし、それを求むるものは誰でしょうか。人々は神の他にあらゆるものを欲しています。諸君の周囲に見えるものは宗教じゃない。応接間に、世界中の珍しい器物を並べて楽しんでいる人が、近頃日本の花瓶が流行してきたといえば、早速それを買って隅へ飾り立てる。そんなことが大多数のもののしている宗教なのである。彼らは快楽の為には色々なことをしている。そして宗教の香りが少なければ社会が何かと批判するからと言って、宗教を信じているような振りをする。これが世界の宗教界の現状である。

 

 一人の弟子が師(グル)のところへ行って、『どうか宗教を授けて下さい』と言った。師(グル)はその青年を眺めて、ただ笑って何も答えなかった。青年は毎日のように師(グル)の許(もと)へ行っては、宗教を授けてくれるように強くお願いした。ある日の暑い日に、師(グル)は青年を川に連れて行った。青年を先に入らし、師(グル)は後から行って力を込めて青年の頭を水の中へ押さえつけた。ややもがかしてから、その手を放した。青年が浮き上がってから、師(グル)は水の中で何が一番欲しかったかを訊ねた。『呼吸(いき)がしたいばかりです。』これが青年の答えであった。そんな風に諸君は宗教を欲しますか。もしそうであれば、諸君は今すぐここで宗教を得られるのです。このような渇仰、このような強い欲求をもつのでなければ、いくら知識があったところで、いくら本を読んだところで、いくら偶像を拝んだところで、宗教などを得られるものじゃない。その渇仰が目醒める迄は、諸君は無神論者と何も違うところはないのです。無神論者はとにかく真面目であるが、諸君はそうじゃない。

 

 ある人が言ったことがある――『ここに一人の泥棒があって、壁一重隔てた隣室に金貨がどっさりあることを感付いたとしたら、その気持ちはどんなであろう。その泥棒は恐らく金貨に心を奪われて、眠ることも、食うことも、何をすることも出来なかろう。どうしたら、壁に穴をあけて忍び込んで宝を手に入れるだろう、ということよりほかの考えは少しも起こらないであろう。それと同じように、今もしここに、真の幸福の本源たる神が在(おわ)すとしたならば、人々はそれを顧(かえり)みずに、平気でいられるであろうか』と。実際そうである。人というものは、一旦神の存在を信じ出すと、その方に夢中になるものである。他人はどうであっても、自分が一旦、今までの生活よりも一層高い人生のあることを信じるとか、五感は一切にあらずして、この限られたる肉体は不死永劫の神の恵みに比べられるものではない、ということを感じ出すと、人というものは、その恵みを自ら手に入れる迄は、夢中になるものである。その憧憬、その渇仰、その熱狂こそ、即ち宗教上の覚醒であって、ここに至って初めてその人は宗教に足を踏み入れたというべきである。しかし、それまでには、なかなか時間がかかる。神像とか、儀式とか、祈祷とか、巡礼とか、経典とか、鐘とか、灯明とか、または僧侶とか、これら一切のものは、単に霊性を磨く手引きに外ならない。これらは霊性から不純物を取り除くことにはなる。そこで霊が純真の光を放ってくると、今度はそれだけでは満足せずして、直ちにその本源に遡(さかのぼ)って、純にして真なる神御自身に到達しようとする。ちょうど幾百年も土の中に埋もれていた鉄片が、大きな磁石の近くにあるものの引き付けられずにいるとき、何かのはずみにその土が除かれると、自然の引力によってその鉄が磁石の方に引かれる、それと同じように、幾年月の汚れにまみれ、不浄と邪悪と罪業とに満ちていた人の魂が、幾百万年の輪廻転生の間に、これらの神像や儀式によってか、または他人に善事を施すことによってか、もしくは他の生物を愛することによってか、浄められることがある。浄められると人性本能の光が現れて、その魂が覚醒し、神に近付こうと努めるようになる。これが信仰の始めである。

 

 しかも、これら一切の神像とか象徴とかは、単に宗教の始まりである。未だ真の愛ではない。人々は常に愛を口にする。神を愛せよとは誰でも言うことである。が、その実、何を愛するのか、そう言う人にも分かっていない。もし実際分かっているのであるならば、そうたやすく口にすることはない筈である。誰でも愛し得ると言いはするが、二、三分経つ中には、その人の心に愛のないことが分かる。この世の中は、愛のお説教で充ち満ちているが、真に愛するということは難しいことだ。どこに愛があるのか。どうしてそれが愛だと言うことが諸君に分かるか。

(二)

 愛の判断の第一は、愛には求むるところなし、ということである。何か為にするところがあって他を愛するものは、それは商売人の愛であって、真の愛ではない。売り買いの問題が入ってくると、それはもはや愛ではなくなる。で、『どうぞ、こうして下さい。ああして下さい』と神に祈るのは愛ではない。とんでもない話。『この小さき祈りに対して、代わりに何々を賜らんことを』これは商売人の言うことに過ぎない。

 

 昔インドに、ある王様があって、山に猟に出かけたところ、偶然一人の仙人に邂逅(かいこう)した。王様はこの仙人と話してみると実に立派な方なので、何か贈り物を差し上げたいからと言ってみた。すると仙人は答えて、『いや、私は今の境遇で充分満足しています。この辺りの樹木は、果実を生じてくれます。美しい川の流れは、水を供えてくれます。私は巌窟に寝ます。あなたが例え王様であったにしろ、何もあなたから貰いたいと思うものはございません。』王様はまた言った。『わが身を浄め、わが心を満足させん為に、私の差し上げるものを何とぞ受けて貰いたい。とにかく城へ一緒にお出でを願いたい。』仕方なく仙人は王様に同行することになって、宮殿に案内されてみると、至る処に珠玉やその他、珍奇な宝物で一杯であった。祈祷する間、しばらくお待ちを願います、と王様は言って、御殿の一隅で祈祷を捧げた。『おお神よ、今少し財宝を与え給え、今少し子女を与え給え、今少し領土を与え給え。』すると仙人は起き上がって、外の方へ歩き出した。これを見た王様は追いかけていって、『お待ち下さい。まだ贈り物も差し上げませんのに、なぜお帰りになりますか。』仙人は向き直って言った。『あなたは乞食です。私は乞食から物をいただこうとはしません。あなたは何を私に下さろうとするのですか。あなたは御自身で始終、物を欲しがっているではありませんか。』まことにその通りである。もし諸君が神に対して、これを下さい、あれを下さいと祈るとすれば、愛と売買との間にどんな相違があるのか。それで、愛の第一要件は、それが商売でないということである。愛はいつでも与える側に立つが、貰う側には立たない。神の真の子ならばこう言うべきである。『もし神が求むるならば、私はこのボロさえも捧げるが、私は神から何も求めようとは思わない――私はこの宇宙にあって何物をも求めはしない。私は神を愛したいばかりに神を愛するのであって、その代わりに何らの好意をも求めない。神が万能にしろ、万能でないにしろ、それは私の知ったことじゃない。何となれば、私は神からいかなる力も、いかなる力の現示をも求めないからである。神なるものは愛の神であって下さいすれば、それで充分なのです。その他のことはどうでもいいのです。』

 

 愛の第二の要件は、愛には恐怖するものなしということである。どうして諸君は愛を畏縮せしむることが出来ようか。獅子(ライオン)を愛する山羊があるだろうか。猫を愛するネズミがあるだろうか。主人を愛する奴隷があるだろうか。恐怖の中に愛なるものがあるだろうか。もしあるとすれば、それはいつも偽りである。神なるものは、一方の手には褒美を持ち、他方の手には刑罰を持って、雲の上にでも坐っていると思っている間は、愛なるものはあり得ない。愛には決して、畏縮、恐怖の観念は伴わない。年若き母が町へ出て犬に吠えられることがあると、人の家へでも逃げ込む。しかし、もしその同じ母が子供を連れて町へ出た時に、一頭の獅子(ライオン)があって、その子供に飛びかかったとすると、その母親は逃げるだろうか。逃げるどころか、母は必ず自分の子供をかばって獅子に面して毅然として立っているに違いない。愛の力はそれ程強いものである。神に対する愛もまた斯(か)くの如(ごと)し。神が賞(ほうび)を授けるものか、罰を授けるものか、そんなことはどうでもよい。それは愛するものの心ではない。裁判官が家に帰るとその妻女の眼にはどう映るか。彼はもはや裁判官ではない。賞罰を決める人ではない、単に自分の夫、自分の愛する人としか見えない。娘は裁判官をどう思うか。その娘には、裁判官は自分達の父としか見えない。

 それと同じく、神の子は、罰するものであるとか、賞するものであるとかとして、神を見ることはない。怖がったり、震え上がったりするものは、未だ愛を味わったことのない門外漢である。野蛮人の心に対しては幾分の効き目があるか知れないが、神をもって賞罰を与えるものとする俗悪な考え――こういう恐怖は、一切取り除くべきである。知識のあるものであっても、精神的には野蛮人であることがある。こういう人たちには幾分の効き目があるかも知れない。しかしながら、精神的覚醒が起こりつつある人にとっては、このような思想は実に幼稚であり、愚かである。愛は恐怖の観念と到底相容れざるものである。

 

 愛の第三の要件は、愛は一層高尚(こうしょう)なるものであって、常に最高の理想なり、ということである。人が前の二つの段階を経過すると――一切の売買の考えを投げ打ち、一切の恐怖を脱すると――それからは、愛は常に最高の理想であることを自覚し始める。この世の中には、美人であって醜男(ぶおとこ)を愛しているものがいくらもある。それと共に、美男子にして醜女(ブス)を愛しているものがいくらもある。その愛し合うのはどういう訳か。しかし傍観者の見るのは、ただ外貌だけであって、愛する心を見ないから不思議に思うのである。愛する者の心に入ってみれば、アバタもえくぼであって三国一の美人であり美男子である。醜男を愛する婦人は、つまり自分の胸にある美の理想を愛するのである。彼女の尊び愛するところのものは醜男でなくして彼女の理想である。その男は暗示であって、この暗示の上に彼女の理想を投げかけて、それを包み、それを自分の讃仰の目的物とするのである。これは何の場合でも当てはまる。十人並の顔をしていている者であっても、兄弟であり姉妹であるという考えは、その者を美人にも美男子にも見えしめる。

 

 それに含まれる哲理を言えば、人々は自分の理想の投影を拝するのである。この外部の世界は、単に暗示に過ぎない。我々の目に映るあらゆる物象は、我々の心の反映である。一粒の砂が真珠貝の中に入ると、真珠貝はそれに刺激されて自らの分泌液を以て包み、その結果、美しい真珠となる。我々のすることも又、これに等しい。外部の物象はただ暗示に過ぎざる砂粒である。その物象の上に、我々は理想を投げかけてそれを包む。よこしまな心の者はこの世界を地獄と見る。正しい心の者はこの世界を浄土と見る。愛する者はこの世界を愛に満てりとし、憎む者は憎悪に満てりとし、争闘の心強き者は世はただ争闘の巷(ちまた)に過ぎないとし、平和の心に富める者は平和のみを見、完全なる者は神のみを見る。そんな風に我々は、常に自らその最高の理想とするところを拝するものであって、それが究極の境地に進む時に――我々が理想を理想として愛する時に、一切の議論も、一切の疑惑も消えてしまう。ここに至っては、神が証明され得るものかどうか、そんなことは問題でなくなる。理想は我々の心性の一部となって離れようがなくなる。科学はこの身以外のどこかに神があって、気まぐれにこの宇宙を支配したり、数日のうちにこの世界を造って、あとは永久に眠っていることを証明しようがしまいが問題じゃない。神が能(あた)わざるところなきと同時に、恵まざるところなきものであるとしても、しないでも、問題じゃない。神が人間の慈父であるとしても、しないでも、又は暴君の眼を以て人間を見るとしても、仁君の眼を以て見るとしても問題じゃない。神を愛する者の心は、これら一切を超えている。褒賞も刑罰も、恐怖も疑惑も、又は科学やその他の説明をも超えている。彼の求むるところは愛の理想である。従ってこの宇宙は、ただこの愛の現示に過ぎないということは、自明の理ではなかろうか。原子は原子に結びつき、分子は分子に結びつき、遊星は遊星に近づかんとし、男は女に、女は男に、人間は人間に、動物は動物に、而(しか)してこの宇宙があたかも一つの中心点に惹き付けられるのはどういう訳かと言えば、それは愛というものに外ならない。その現示は、最も微細なる原子から最高の理想まで、皆、同じことである。この愛は遍通自在、広大無辺のものである。有情無情のものに、個々のものに、全体のものに、引力として現れているものは神の愛である。この愛の力によって、キリストは人類の為に、夫は妻のために、己(おのれ)の生命を棄つる為に立つ。この同じ愛の力によって、男子は国家の為に身命を投げ打つ。不思議なことには、泥棒が盗みをしたり、人殺しが人を殺害するのも、実はこの同じ愛の力によるのである。何となれば、かかる場合においてもその現れる形こそ異なれ、その心は同じである。これが宇宙における原動力である。泥棒は財宝に目が眩(くら)んでいる。愛がそこにあるのだが、その向け方が誤っている。それで、すべての徳行と同じように、全ての罪悪にも、その背後にはその永遠の愛がある。遍く一切のものに輝けるこの宇宙の妙力は愛であって、愛は即ち神である。もしこの愛がなければ、宇宙はたちまちにして崩壊に帰してしまう。

 

「夫のために、夫を愛する妻はない。その愛するものは、夫の中にある『我(アートマン)』である。妻のために妻を愛するものはない。その愛するものは、妻の中にある『我(アートマン)』である。『我(アートマン)』以外の他のものを愛するものとてこの世の中にはない。(※)」この利己心はよほど非難されてはいるが、それでも同じ愛の一つの現れである。次から次と変わりゆくこの世界の劇的場面に目を注げば、そこには一大調和が存在している。全てが同じ愛の現示であることを見る。その一つの『我(アートマン)』、一つの人間が、結婚して二つの『我(アートマン)』となり、子女を設けて更に数個の『我(アートマン)』となり、なお進んでは一村一都市となり、ついには全世界全宇宙を挙げて、彼の『我(アートマン)』となさなければ止まない。その『我(アートマン)』が、時の進むにしたがって、全ての男女、全ての子女、全ての動物、而して全宇宙を包むようになる。この身が宇宙愛、無限の愛の宿にまで進まなければ止むことはない。この愛は神である。

(※編集者註――これはブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド第四章五‐六よりの引用。佐野甚之助氏は『我』にセルフとルビをつけていたが、ウパニシャッドを参考に変更した。)

 

 このようにして我々は、神像もなく象徴もなき無上愛(バクティ)――最高信念というべきところに来ることができる。この点に達した者は、どの宗派にも属し得ない。何となれば、彼は全ての宗派に属しているからである。彼はどの寺院やどの教会にも属し得ない。何となれば、彼は全ての教会寺院に属しているからである。彼を容れ得るくらい大きな教会は、どこにもありようがない。彼はある定まった形式に束縛されることが出来ない。神と合一した無限の愛を有するものに対して、どうして制限を加えることが出来ようか。この愛の理想を標榜する全ての宗教は、その理想をどのようにして言葉で表現しようかと努めている。しかもこの無限の愛は、感じるものであって、口に出して言うことが出来ない程広大なのである。ただわずかに世俗的な言説を以て、その理想を表すより外に仕方がない。

 

 ヘブライの聖人も、インドの聖人も同じことを歌っている。

『おお愛する人よ、汝のたった一度の接吻――汝に依(よ)って接吻された者、その人の汝に対する渇仰は永久に増す。全ての悲哀は止み、過去も未来も忘れて、ただ汝をのみ想う。』

 これが愛する者の熱狂である。ここに至って、一切の煩悩はその跡を絶つ。解脱も要(い)らなければ、救済も要らなければ、完全なる者になることも要らなければ、自由も要らない。これが真に愛する者の心である。聖者の情熱的な信仰を微(かす)かにうかがい知ることができるのは異性の愛である。それで愛という言葉を借りて用いるのである。このように熱狂的信仰に生きようとするものは、神の愛に酔おうとする。彼らは、各宗門の教祖等がその心血を注いだ、何らの報いを求めずして、愛の為に愛するという希望に満ちたる杯を飲もうとする。これが一切の悲哀を取り去る唯一の途(みち)である――世の苦悩を除く唯一の杯である。ここに至って、人間は浄化の極みに達し、その人間たることをも忘れてしまう。

 

 最後に――世の中には種々の宗門はあるが、結局一つの点――完全なる結合に帰一する。人間はいつも初めは二元論者である。神と人間とは別々なものであるとする。愛なるものはその中間に生じて、人間は神に近づかんとし、神は人間に近づかんとする。人間は父として、母として、友人として、愛するものとして、生活上種々の関係を経るのであるが、礼拝の目的と一(ひとつ)になる時に至って最高の点に達する。我は汝である、汝は我である。汝を拝するは我を拝することであり、我を拝することによって我は汝を拝する。二元論に始まった人間が、ここに至って究極の絶頂に達する。初めは『我』に対する愛であるが、小我に執着する愛は利己的である。その『我』が無限に拡まる時に、一大光明が輝きわたる。最後、どこかに在(ましま)していた神が、無限の愛に溶け合ってしまう。妄念、妄想と共に利己の念(こころ)が消え、その極まったところで彼は愛を見出したということが出来る。愛するものと愛せられるものとが一(ひとつ)である。

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